核への不安と期待 1950~80年代 原水禁分裂、被爆者援護の拡充に壁
反原爆、核兵器廃絶と被爆者援護を目指す被爆地の歩みと地元報道を見つめ直す「原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道」の第5部は、1950~80年代を見つめる。被爆者運動は、原水禁運動の分裂に強い影響を受けながらも、援護の拡充を目指した。だが、国の壁は厚かった。一方、原爆被害を世界に発信する重要性が認識され始めた時代だった。
長崎新聞の前身、長崎日日新聞の原爆・平和報道は占領期後、55年ごろから紙面に明確に位置付けられる。ライバル関係だった長崎民友新聞とは59年、対等合併し、「長崎新聞」が誕生。本社を出島に置き、夕刊も刊行。さらに佐世保軍港新聞を起源に九州時事新聞などを経て県北を基盤に展開していた長崎時事新聞と68年、合併した。
本県新聞業界の再編の中、原爆・平和報道の内容は深化、拡大していく。この特集では、諸問題を掘り下げたり多面的に報じたりする「連載企画」に着目して、紙面をめくった。
■浦上の子
55(昭和30)年8月、長崎日日新聞が掲載した「原爆十年」は、原爆関連の初の本格的な連載企画で、被害の実情を多面的に報じようとした。
「あの日母親の死体によりそっていた乳のみ児や当時胎内にあって放射能を浴びたこの”原爆の子”たちは一おうスクスクと育ち元気で学校に通っている」-。
城山小児童の現状を描いた初回「浦上の子ら」。2回目以降、原爆孤児や無縁仏、永井隆について書いた「如己堂物語」などを掲載した。放射線の影響は未解明で、「思わぬときに思わぬ人がポックリ死んでいくのは何んとしたことだろう」と不安感を記す一方、連載の冒頭では時代を反映し「原爆から原子力平和利用へ大きく進展する時代の先頭に立って走ってきた”ナガサキ”」と、原子力利用への期待感もにじませている。
長崎医科大と原爆傷害調査委員会(ABCC)の原子病究明の取り組み、被爆者の手記、「原爆の子対談」と続き、座談会で被爆時を振り返って締めくくった。連載としては統一感に欠ける面もあるが、原爆問題の全容を幾つかの断面で捉えようと試みている。
この後の数年、毎年夏は同様のスタイルの連載企画が掲載される。
57年、被爆者の健康診断と治療を公費で行うと定めた原爆医療法が施行。同法により、原爆投下当時の長崎市と隣接の一部区域(爆心地から半径5キロ以内)を「被爆地域」とした。極めて限定的な法律で、被爆者はまともな援護に向け、血のにじむような運動を徐々に展開していく。一方、保存の声が高まっていた旧浦上天主堂は、58年に取り壊された。
■打ち勝つ
広範囲に及んだ原爆被害。そこに向き合う当事者や支援者は、膨大な人数に上る。大人から子どもまでさまざまな団体が誕生し、生活支援や教育などを含めて長崎を舞台に多彩な活動が展開された。59(昭和34)年8月の「原爆に打ち勝つ」では、城山の子ども会や長崎原爆母親の会などを紹介。被爆者の一主婦が憩いの場として家野町に開設した「被爆者蘇りの家テレビ館」にもスポットを当て、身体障害を負ったり生活困窮に陥ったりした被爆者をサポートし、就職あっせんする主婦の姿を描いた。
63年の「生まれ変わった被爆地 あれから18年」では、被爆当時と18年後の写真を比較。街並みの復興を強調した。
全国に拡大した原水爆禁止運動。保守、革新を超えた国民的運動となり、55年9月に運動母体の原水爆禁止日本協議会(原水協)が発足したが、日米安保や米ソの核実験への対応などの違いから61年に核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)、65年に原水爆禁止日本国民会議(原水禁)が結成され、分裂した。
■待てない
原爆特別措置法の施行前年の67年、当時の厚生省は「被爆者と非被爆者の間には、生活や健康上の格差はない」とする原爆白書を発表。被爆地は猛反発する。
同年夏、紙面では「もう待てない 長崎原爆22年目の訴え」が始まった。それまでの総花的な連載ではなく、被爆者援護や医療の分野にテーマを絞った内容。一般被爆者と特別被爆者に分類、差別化していた法律の問題を中心に医療サイドの不備、ABCCへの不信などをまとめた。
国に対する被爆者らの怒りは証言活動の原動力となり、秋月辰一郎、鎌田定夫らを軸に長崎の証言刊行委員会が発足。69年、「長崎の証言」を創刊する。紙面には福田須磨子、渡辺千恵子、松尾あつゆきらが名を連ねた。
70年夏、夕刊で掲載した「今は昔25年 カメラで見る爆心地」は、被爆遺構を一枚の写真で見せるスタイル。原爆を写真で問う連載となった。同年、日本は核拡散防止条約(NPT)に調印。長崎市原爆被爆教師の会が結成され、平和教育の取り組みも本格化していく。71~72年、被爆2世の中学生や高校生が悪性骨肉腫や急性骨髄性白血病などで相次いで死亡。後世への不安が被爆地に広がる。
韓国人の孫振斗(ソンジンドウ)が、被爆者健康手帳の交付を求め福岡地裁に提訴したのは72年。その後の在外被爆者の援護運動へつながっていく。
74年と76年、被爆地域に近い区域を「健康診断特例区域」とし、被爆地域(同区域含む)は南北に長くいびつな今の形に。74年6月、当時の田中角栄首相が、平和公園で現職首相として初めて慰霊。「被爆者の援護は、現実的な面で充実していく」と述べ、被爆者援護法制定には難色を示した。
■悲願、苦悩
75(昭和50)年、原爆・平和報道は今までにない充実した展開となる。連載は「長崎被爆30周年・悲願ことしこそ」と題し、例年より早い6月から始まり、計4部構成。並行して、原爆に関するキーワードを説明する「原爆メモ」が67回掲載された。76年8月9日、初めて当時の三木武夫首相が長崎の平和祈念式典に参列。日本の現職首相が原爆死没者の慰霊のため同式典に足を運ぶまでに31年もかかったのだ。
77年の連載「苦悩」は、毎回1人を取り上げ、その被爆体験と主張などをまとめた企画。長崎原爆遺族会長の杉本亀吉、長崎大付属病院勤務の片岡ツヨらが登場した。この「人もの」でつないでいくスタイルは、78年の「被爆33年目ナガサキの訴え」(全3部)など、80年まで全面的に紙面に取り入れられた。
世界と長崎との関わりは密になっていく。第1回国連軍縮特別総会は78年に米ニューヨークの国連本部で開催。広島、長崎両市長も出席し、核兵器廃絶を訴えた。原子力船「むつ」の佐世保入港もこの年。79年、米ペンシルベニア州のスリーマイル島原発で大量の放射能漏れ事故が発生し、世界に衝撃を与えた。
厚生相の私的諮問機関「基本懇」が、戦争被害について「すべての国民がひとしく受忍しなければならない」とした答申を出したのは80年。この論理を基本に、原爆放射線の健康被害を「特別な犠牲」と定義。救済から一般戦災者らを切り離す一方、原爆症認定制度などに放射線起因性といった壁を持ち込む根拠になっていく。
81年、「生きている夏 松尾あつゆき被爆36年の軌跡」を掲載。82年の「原爆を読む」、83年の「絵画にみる長崎原爆」など、文化の側面から原爆問題を捉える企画につながっていく。
82年、県内各地の被爆者が体験を証言する「あの日私は…」を計22回掲載。現在、本紙で長期連載中の「忘られぬあの日 私の被爆ノート」の一つの原型となった。
同年、年次企画「平和を考える」(全5部)がスタート。県内の米軍基地(佐世保)、自衛隊基地(佐世保、大村、対馬)の実態をルポなどの手法で報告。本県における安全保障の現実をあぶり出した。併せて被爆地(広島、長崎)の市長や被爆者が参加した第2回国連軍縮特別総会の取材を通じ、世界の中の原爆問題を考察した。(文中敬称略)
◎今は亡き原爆・平和関連の当時の主な人物 (文中敬称略)
■秋月辰一郎(2005年10月20日、89歳で死去)
長崎市出身。被爆医師で長崎の反核・平和運動を指導したシンボル的存在。
1940年、京都帝大医学部卒。翌年、故永井隆博士がいた長崎医科大放射線科で助手に。勤務先の浦上第一病院(聖フランシスコ病院の前身)で被爆。直後から救護活動に奔走した。惨状を記録した「長崎原爆記」(66年)「死の同心円」(72年)などを著し、同年に第6回吉川英治文化賞。被爆者医療、被爆者行政、核兵器廃絶運動に積極的にかかわった。69年、「長崎の証言の会」設立に加わり、代表委員に就任。83年の長崎平和推進協会設立では初代理事長。
■鎌田定夫(02年2月26日、72歳で死去)
宮崎県出身。被爆者ではなかったが、被爆者の声を収集する「長崎の証言」運動をリードし、長崎の被爆者運動を支えた。
九州大文学部卒。62年、長崎造船短大(現長崎総合科学大)に助教授として赴任。65年教授。有志らと長崎原爆の調査に取り組み、「長崎の証言」を創刊。
78~92年、長崎総合科学大長崎平和文化研究所長。長崎市長が原爆の日に読み上げる「長崎平和宣言」の起草委員も務めた。外国人被爆者の問題に早くから着目し、実態調査した。97年に長崎平和研究所を設立。
■具島兼三郎(04年11月12日、99歳で死去)
福岡県出身。日本のファシズム分析や核・平和問題などの研究で知られた政治学者で元長崎大学長。長崎の平和運動をリードした。
九州帝大法文学部卒。同志社大法学部助教授を経て、南満州鉄道調査部勤務時代の42年、日独伊三国同盟に反対して3年間獄中生活。戦後、48年に九州大教授となり、国際政治研究の傍ら、原水禁運動に参加。74年から6年間、長崎大学長。その後は長崎総合科学大長崎平和文化研究所長に就任。研究と平和運動に力を注ぎ、長崎市の平和宣言起草委員長も務めた。
■葉山利行(05年8月2日、75歳で死去)
西彼長与町出身。長崎の被爆者運動を指導的立場の一人として長く率いた。
44年、国鉄長崎機関区に就職。爆心地から約2キロの長崎駅構内で被爆、重傷を負った。国鉄を退職後、61年10月、長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)事務局長に就任。被爆者援護法制定運動で中心的な役割を果たし、在外被爆者の掘り起こしなどにも力を尽くした。99年、長崎被災協会長、00年、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)代表理事に就任。長与町議も88年4月から4期15年務めた。
■深堀勝一(06年2月2日、78歳で死去)
長崎市出身。長崎の被爆者運動を長くリードし、被爆者援護策の充実などに力を尽くした。
旧制長崎商業在学中、学徒動員先の三菱長崎兵器製作所大橋工場(爆心地から約1・4キロ)で被爆。全身に重傷を負い、原爆で母と弟妹を亡くした。戦後「動員学徒にも軍人・軍属への補償と同等の補償制度を」と訴え、57年に「県動員学徒犠牲者の会」を結成。67年、加盟していた長崎被災協とたもとを分かち、新たに「手帳友の会」を発足。県内各地に支部網を設け、有力被爆者団体の一つに育て上げた。
■福田須磨子(74年4月2日、52歳で死去)
長崎市出身。詩人。爆心地から1・8キロの長崎師範学校(文教町)で被爆。父母と長姉は、浜口町の自宅で爆死。以降、代書事務員や店員、ブローカーなど職を転々とする。皮膚が紅斑で覆われるエリテマトーデスやリウマチ、脱毛など全身を侵され、原爆症に苦しみながら反核、平和、被爆者の後遺症や複雑な心情を詩や文章、行動で訴えた。「何もかも いやになりました/原子野に屹立(きつりつ)する巨大な平和像」。この言葉で始まる詩「ひとりごと」を収録した処女詩集、生活記録「われなお生きてあり」など。
■山口仙二(13年7月6日、82歳で死去)
五島市玉之浦町出身。長崎原爆で被爆し、日本の被爆者援護運動、反核・平和運動をけん引した。
旧県立長崎工業学校1年で14歳のとき、学徒動員先の三菱長崎兵器製作所大橋工場敷地内(爆心地から1・1キロ)で被爆。顔や上半身が焼けただれた。貧困の中、ケロイド、被爆の後遺症に苦しみ、植皮手術などのため入院や自宅療養を繰り返した。55年、長崎原爆青年会(後に長崎原爆青年乙女の会)を設立。56年、被爆者への国家補償実現などを目指して発足した長崎被災協の結成呼び掛け人の一人となった。長崎被災協会長、被団協代表委員を歴任。
長崎の被爆者運動、平和運動は、原爆や被爆体験を基点にして多彩な人々がけん引し、広島とはまた違った歩みを進める。1980(昭和55)年の連載企画「被爆三十五年 ナガサキからの提言」は、平和問題に関して7人に提言してもらっており、その内容は35年後の被爆70年となった現代社会に対するメッセージとして受け止めることもできる。一部を紹介する。
▽具島兼三郎=当時・長崎大学長=
「核兵器の時代における国防とは何か、を考えねばならない。軍備を持ったら安全になるのか、核兵器を多く持てば安全になるのか。決してそうではない。現に軍事大国アメリカが安全であるかといえば少しも安全ではない。1940年代までは無敵だったが、軍拡に次ぐ軍拡の結果はどうか。核戦争が起これば1時間以内にアメリカの全都市が破壊される、という不安な状況にある。もちろん同時にソ連の全都市も壊滅してしまう。核抑止力論は軍拡を正当化するものにすぎない。防衛とは、総合的な安全保障を考える以外にないと思う」
▽江頭千代子=当時・長崎国際文化協会事務局長=
「広島に次いでなぜ長崎にも原爆が落とされたのか。原爆の威力がまだよくわからなかった時代、モルモット扱いにされたとしか思えない。何度、アメリカに行って煮えくりかえる思いをたたきつけようと考えたかしれない」「戦争という最悪の時代を生き延びたからこそ平和な時代を生きることが最大の喜びなんです」(江頭は長崎原爆で母、夫、子ども4人を失った)
▽本島等=当時・長崎市長=
「国民のなかには、武器を持つことや、ある時期には戦争も避けられない、との考えを持つ人もいる。敵が武器を持つから自国も持たなければいけない、との考えは、過去の歴史から見ても決して最終的な平和手段とはなり得ないことを、被爆地の立場から訴えていきたい」「自衛隊は自衛のものである間は、現存することでもあり、認めざるを得ないが、これ以上の増強はすべきでない。防衛から攻撃につながる恐れもあると思うからだ」
▽秋月辰一郎=当時・聖フランシスコ病院医長=
「核兵器はそもそも武器としての常識を超えている。その時代には新しいモラル、国家思想が伴わなければならない。しかし現状は”国を守る”とか”相手国が持つから持つ”といった旧兵器時代の思想が幅を利かせ、日本でも戦前と同じような防衛論議が高まってきた。戦争は理性を失わす。それが怖い」「非核三原則は被爆国として当然のこと。しかし立法化しないところをみると、大国間の現在の対立バランスのなかで保守政治は核保有のフリーハンドを持っておきたいのではないか」
▽葉山利行=当時・長崎被災協事務局長=
「(原水禁運動が)分裂大会をしていては、現在の国際情勢から見て核兵器廃絶は実現しない」「原水爆運動の分裂が、被爆者援護法の制定を遅らせた、といっても過言ではありません」
(文中敬称略)