復興に向け時代を残す
戦後、サラリーマンとして歩み始めた三上秀治(83)=長崎市泉1丁目=が、カメラ「フジカシックス」を相棒に、市内各所を歩き回ったのは1955(昭和30)年前後。長崎が復興に向けて立ち上がろうとしていた時だった。
「写真で時代を残す」。三上はそんな思いで撮りためた。その中には、今はなくなってしまった多くの懐かしい風景を見ることができる。
爆心地に近い松山町方面の55年撮影の一枚(写真)。賛否を呼んだ市営競輪場が写っている。今の市営ラグビー・サッカー場付近に49年オープン。当時、長崎の復興の”壁”となっていたのは財政難だった。市営旅館や市営食堂を運営しても、復興資金はなかなか捻出できない。目を付けたのが競輪事業だ。
「新長崎市史」などによると、競輪場の収益は大きく、4階建ての競輪アパート(通称)を建てるほど市財政への影響は大。しかし計画段階から「きれいな金で復興すべき」など、ギャンブルへの風当たりも強かった。常に存続の可否が問題となり、改修期限の66年に休止。後に廃止された。
写真の六角形の建物は、長崎市原爆資料館(通称・六角堂)。現在の爆心地公園の一角で、すぐそばに原爆落下中心地碑が立つ。
被爆関連の資料収集、展示のため、市が原爆資料保存委員会を発足したのは、49年。三上は「原爆被害の大きさを継承しなければとの機運が当時、高まってきていたのだろう」と話す。
(文中敬称略)