特攻目撃し むなしさ
1945(昭和20)年4月、米軍は沖縄本島に上陸し、地上戦を開始した。陸軍飛行第10戦隊の偵察将校、23歳の出口清は、米軍の占領状況や艦隊の規模を探るため、沖縄に飛んだ。高度1万1千メートルから写真を撮り、台北に帰投する。操縦士と話しながら、石垣島上空で7千メートルに高度を下げた時、米軍の戦闘機P51が突っ込んできた。「しまった」。血の気が引いた。
米軍機は、尾翼の陰に隠れて後をつけ、高度を下げたところに攻撃を仕掛けるのが常とう手段だった。こちらが降下中で減速しているのに対し、敵は猛スピードで追撃してくる。前方に大きな雲を見つけ、「右旋回で突っ込め」と指示。入った瞬間、すぐに左に切らせた。雲を抜けると、敵機ははるか遠くにいた。右旋回で入るのを見て、雲の逆側で待ち伏せていたのだ。一瞬の判断が奏功した。
戦況悪化に伴い、10戦隊でも特攻隊が編成された。「志願者は申し出ろ」と上官に言われ、若い少年航空兵の一員が勇ましく進み出た。「自分を最初にやってください」。死ぬことに何の迷いもないようだった。
出口は特攻訓練で誘導の役割を担った。先に飛んで敵地を偵察後、編隊を先導。戦果を見届けて司令部に報告する。誘導機は「生きて帰ること」が至上命令。訓練とはいえ、つらかった。
沖縄の偵察中、別の戦隊が米艦隊に特攻するのを見た。350~400隻の一斉砲撃の中を突っ込んでいく。煙幕でろくに前も見えず、ほとんどが撃墜され海に消えていく。「アリがゾウに食らい付くようだった」
機内から手を振った。「俺も必ずそっちに行く。待っとれよ」。寂しさとも悲しさとも違う鉛のような感情を胸に抱え、基地に戻った。死ぬ覚悟はあった。だが、日本の敗戦は明らかだった。決して口に出さなかったが、心の片隅で思った。「早く終わらんかな…」。開戦当初の高揚感と全く違うむなしさが募った。
8月15日、台湾の桃園で玉音放送を聞いた。はっきりと聞こえなかったが、負けたと理解した。基地にある書類や写真を焼いた。
翌年8月に復員。浦上駅に降り立つと原爆で一面焼け野原だった。故郷の長崎市の旧三組川内郷(現在の三川町)で1軒ずつ敗戦をわびて回った。満州に出征した弟の勇男はシベリアに抑留され、49(昭和24)年に帰ってきた。
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戦後70年。命懸けで戦い死んでいった人々を忘れ、その場限りの「平和」を享受する現代の日本人を見ていると、情けなさで涙が出る。今も日本は米国の占領政策の下にいると感じる。米国従属を脱却し、真の意味での独立を果たした上で、国際的な民間交流を育てる。それが平和への礎になると信じている。
(文中敬称略)