戦後70年 ながさき 戦争の残照旧日本兵の証言
 元陸軍飛行隊少尉 出口清さん(93)=長崎市 中

出口さんが出征中に持ち歩いた「千人針」。内側の袋にはたくさんのお守りが入れられていた

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戦後70年 ながさき 戦争の残照旧日本兵の証言 元陸軍飛行隊少尉 出口清さん(93)=長崎市 中 日々危険な敵地偵察

2015/08/14 掲載

戦後70年 ながさき 戦争の残照旧日本兵の証言
 元陸軍飛行隊少尉 出口清さん(93)=長崎市 中

出口さんが出征中に持ち歩いた「千人針」。内側の袋にはたくさんのお守りが入れられていた

日々危険な敵地偵察

「この時代に生まれた喜びを感じています」
1942(昭和17)年8月、長崎市の旧三組川内郷(現在の三川町)の薬師如来堂前、20歳の出口清は、近所の人々を前に健闘を誓った。いよいよ出発の日だ。
住民全員で道ノ尾駅まで出征者を送り出すのが地域の慣例。50人近くが日の丸旗を手に汽車を見送ってくれた。前日に勤務先の三菱重工長崎造船所主催の祈願祭も催してもらった。「精いっぱいやろう」。若い胸に決意がみなぎった。
大村の歩兵46連隊に入隊したが、上官の勧めで幹部候補生を目指す予備士官学校を受験し、合格した。8カ月後に卒業し見習士官になった。満州国・嫩江(ノンコウ)の飛行場を経て、下志津陸軍飛行学校(千葉県)で、航法や航空写真、暗号作成と解読など空中偵察将校として教育された。
44(昭和19)年1月、22歳で、ついに戦地への配属が決まった。ボルネオの飛行隊に合流せよとの命令。向かう途中の台湾・台北で陸軍飛行第10戦隊転属に変更。伝統ある部隊で、素直にうれしかった。
同年9月から隊は台湾に拠点を移した。サイパン部隊全滅以降、沖縄と台湾の戦力強化が急務だった。任務に応じ、台北、桃園、台中、塩水、小港の五つの飛行場を毎日転々とした。
1機に操縦士と偵察将校が2人一組で乗り、上空から沖縄や中国の地上を撮影し、写真を台北の司令部に持ち帰る。高度、航路は全て偵察将校が決め、操縦者は全面的に従う。2人分の命を握っていた。
高度約1万1千メートル。空気が薄く頭がもうろうとする中、速度と高度からシャッター速度を調整し、敵地の軍港や飛行場を撮る。写った飛行機や軍艦の数から敵の戦力を把握し、作戦が立てられる。下志津時代に「写真が師団の命運を分ける」とたたき込まれていた。師団長に正確に報告するまで緊張が続いた。報告中、話に割り込んでくる参謀に口答えしたこともあった。無事に報告を終えると、体からがっくりと力が抜けていくのが分かった。
偵察では攻撃される危険もあった。ある日、任務を命じられたが機体の整備が終わらず、後の順番の者が代わりに飛んだ。だが帰ってくるころに「不時着」の信号。「やられたかもしれない。捜してこい」と命じられ、飛んだ。尖閣諸島で4機が不時着し、燃えているのが見えた。隊の飛行機ではなかったが、戦闘があったのは間違いない。結局、自分の代わりに飛んだ者は見つからなかった。
万が一に備え、「不時着」を知らせる信号は早く打てるようにしていた。もう一つ、早打ちの訓練をしていた言葉は「天皇陛下万歳」だった。(文中敬称略)