戦後70年 ながさき 戦争の残照旧日本兵の証言
 元陸軍飛行隊少尉 出口清さん(93)=長崎市 上

戦地で国の役に立ちたいと念じていた当時の心境を思い起こす出口さん=長崎市三川町

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戦後70年 ながさき 戦争の残照旧日本兵の証言 元陸軍飛行隊少尉 出口清さん(93)=長崎市 上 召集で「やっと一人前」

2015/08/13 掲載

戦後70年 ながさき 戦争の残照旧日本兵の証言
 元陸軍飛行隊少尉 出口清さん(93)=長崎市 上

戦地で国の役に立ちたいと念じていた当時の心境を思い起こす出口さん=長崎市三川町

召集で「やっと一人前」

1941(昭和16)年12月8日。当時20歳の出口清(93)=長崎市三川町=は、三菱重工長崎造船所の立神工場でいつものように図面を引いていた。社内放送が入り、全員が手を休め、耳をすませた。日本軍が真珠湾攻撃で戦果を挙げ、開戦したことが伝えられた。
「やったぞお」。放送が終わるやいなや、わっと歓声が湧いた。「勢いがついて、仕事にも張り合いが出た」。所内では「800番船」と呼ばれる超大型戦艦を秘密裏に建造していた。世界最大と言われた大和型戦艦「武蔵」である。
21(大正10)年、旧西浦上村三組川内郷(現在の同市三川町)の農家に生まれた。5歳の時、父は衛生兵として勤めた大村陸軍病院で肺病に感染したらしく病死。生まれたばかりの妹を連れて母が実家に帰ったため、出口は父方の祖父母に弟の勇男と育てられた。小学校では「親なし子」といじめられた。学芸会にも運動会にも親はなく、寂しい思いもした。だが父の生前の頼みから親戚は気掛けてくれた。鎮西学院の旧制中学部に通わせてもらった。
卒業後、18歳で長崎造船所に入社。「国の役に立つ近道」。当時、長崎の若者の多くが三菱に就職していた。「飲み屋では客を、三菱の方、県庁の人、市役所のやつと呼び分ける」。そんな冗談まであった。
造船設計部軍艦課に入ると機密保持の誓約書に署名、押印させられた。38(昭和13)年に既に起工していた800番船(武蔵)の建造に携わるためだ。製図の補助的役割が主な仕事。武蔵の図面は海軍の監督官が全て点検するため、筒に入れ、度々持っていった。
42(昭和17)年7月、愛媛県の佐田岬沖で武蔵の公式試運転に立ち会った。海軍兵が一丸となり、攻撃で船体が傾いたときの応急注水や人力でかじを切る訓練をしていた。みな食らい付くように説明を聞き、汗だくで練習していた。あらゆる事態を想定した万全の装備と訓練。「武蔵は沈まない」と誇らしく思った。
軍に入って戦いたかった。死んで悲しむ者は誰もいまいと思っていた。海軍上がりの叔父の影響も大きかった。だが徴兵検査は第2乙種で不合格。「すぐに召集が来る。がっかりするな」と励まされたが、機密保持のため武蔵建造の関係者は召集されないとのうわさもあり、気掛かりだった。
同年8月、下宿先の叔父の家に帰ると弟の勇男が来ていた。もぞもぞと落ち着かない様子。何か言いたそうだが、気の毒そうにこちらを見るばかり。叔父が、見かねて切り出した。
「召集令状が来たよ」
大村の歩兵46連隊への配属で、期日まで3日。「やっと一人前の男になれる」。死の恐怖よりも、むしろ安堵(あんど)感が広がった。(文中敬称略)

15日で終戦70年。太平洋戦争時、陸軍飛行第10戦隊に所属し、偵察などの任務に当たった旧日本兵を通し、戦争を見つめる。