諸藤直彦さん(82)=西彼時津町野田郷= 爆心地から6.5キロの時津村浦郷で被爆 歴史ではなく体験話す
当時は、時津国民学校の高等科1年で12歳。8月9日は夏休み中の登校日。同学年の男子のほとんどが、校舎裏の崖の上の畑で草取りをしていた。
「警報が解除になったのに爆音のするですなあ」。作業監督の先生が私のそばの先生に話しかけた。耳を澄ますと確かに「グワーン」と音がする。「長崎の方ですばい」。声につられて南の空を見た瞬間、空中にバレーボールのような形の何かがぶわっと上がった。よく見るとジャガイモのような真っ赤な玉が無数に集まっているように見えた。
「ただごとではない」。夢中で坂を下り、約150メートル先の防空壕(ごう)へ。中は既に生徒でぎっしりだった。夕方、帰宅許可が出た。自宅は、爆風で天井が曲がったりガラスが割れたりしていたが、親代わりの祖父母にけがはなく、ほっとした。長崎市五島町に住む伯母一家も無事で、11日に全員が避難してきた。
原爆投下から4、5日後、同町の伯母宅の片付けに行った。市内は一面が焼け野原。同町から長崎駅まで全て見渡せるほど。火災被害のひどさに驚いた。
被爆者アンケートでは、「被爆者や戦争体験者が減っていく中での不安」に関する質問に、「実際の被爆者の声が聞けなくなること」と答えた。被爆者が体験したつらさや悲しみは、核兵器を使用させないための”歯止め”になってきた。被爆者がいなくなれば、その力が弱まるのではないかと心配。
70年がたつ今、戦争や被爆が経験ではなく、単なる歴史として受け止められているようにも最近感じる。一方、東京に住む孫が5月にわが家を訪れた時、自分から「戦争のことを伝えていかなきゃね」と話してくれた。関心を持っていることがうれしかった。
所属する長崎原爆被爆者の会時津支部も会員減。「私たちのようなことが起こらないように体験を話していかなければ」と励まし合っている。これからは特に中高生に伝えていきたい。「おじいさんの昔話」でなく、10代の少年が見聞きしたこととして受け止めてほしいから。