荒木孝行さん(88)=雲仙市国見町= 長崎市の大波止付近で被爆 遺伝的影響 研究深めて
長崎新聞社の被爆者アンケートで、不安に思うこととして次世代への影響を挙げた。「被爆2世や3世の(放射線の影響)研究を深めてほしい」
今のところ、4人のわが子、孫やひ孫は元気に過ごしているが、「何か影響が出てくるかも」と、ずっと心配してきた。
国見に生まれ、9人兄弟の長男。長崎市浜口町の三菱長崎工業青年学校で機械設計などを学びながら働いた。初任給は9円80銭。そのころ教員の勧めで漢和辞典「新字鑑」を3円90銭で購入した。
18歳になり、学徒報国隊の指導員を務めていた。あの日、同校内の工場で働く女学生の出席簿を水の浦町の事務所に届けるため、大波止で旭町行きの船に乗船。係員が桟橋に結んだロープを解いていたとき、閃光(せんこう)が走った。とっさに目と耳を押さえて伏せた。
しばらくして下船し、市中心部をさまよった。手のひらと足の裏以外の皮膚が全てはがれ、髪も眉毛もない状態で浦上方向から逃げてきた人が、防空壕(ごう)の前で泣き崩れていた。
「火を消すのを手伝って」と叫ぶ女性に応じ、井戸のポンプで水をくんでバケツ5、6杯分を掛け、すぐ逃げた。夜に飽の浦町の寮へ戻ると、180人くらいいた寮生は、十数人しかいなかった。
翌朝、浜口町の校内の工場に行くと壊れた機械と死体だらけ。誰が誰だか分からない。橋の下にいた学生服の男は左手が焼け、小指の骨が見えていた。「私はもうダメです」と言う彼を担架に乗せ、寮へ連れ帰ったが翌朝亡くなっていた。
そのころから寮には親類を捜す人々が押し寄せた。学生の部屋に案内し、遺留品を持ち帰ってもらった。1カ月ほど後、寮の職員が「明日、進駐軍が来るから逃げる」と言うので、トラックに乗せてもらって国見へ帰ることにした。「新字鑑」だけ持って。家財道具はどうなったか分からない。
「子や孫には、自分のような体験をさせたくない」。被爆体験の継承の必要性を感じている。市内の小中学生に講話する際は「原爆は非人道的な武器。人類の滅亡につながる」と訴えている。