被爆遺構 問われる根本的意義
2013年に国の登録記念物になった「長崎原爆遺跡」(旧城山国民学校校舎、浦上天主堂旧鐘楼、旧長崎医科大学門柱、山王神社二の鳥居の4件)の国史跡指定を目指し、長崎市が設置した調査検討委の会合。文化庁の担当者が苦々しい表情で切り出した。「原爆遺跡は指定史跡より登録記念物の方がふさわしいと考えている。(市は)史跡指定を目的化している。登録記念物ではだめなのか。もっと議論を深めてほしい」
登録決定当初から、市は手厚い財政支援がある史跡指定を視野に入れていた。14年度に検討委を置き、来年1月の国への意見具申を目標に定めた。だが文化庁担当者は「登録は指定の”前段階”ではない」とくぎを刺し、4件は保全重視の指定史跡より活用重視の登録記念物が適当と指摘。市は財政支援目当ての姿勢を見透かされ、保全の根本的意義を問い直された。それでも中村明俊長崎原爆資料館長(56)は「被爆70年の意志を示すためにも史跡指定を目指す」と強調した。
ところが約2カ月後の7月28日、検討委は急きょ、松山町の爆心地を意見具申の対象に加えた。いわゆる「爆心地公園」は戦後に整備されたが、下川達彌会長(72)=活水女子大教授=は「原爆被害の起点であり、四つの遺跡を語る上で欠かせない」と説明。文化庁担当者もその考え方には同調し「地下に当時の地層も保存されており、重要な遺跡といえる」とした。
同館の奥野正太郎学芸員(29)も、爆心地のように「痕跡が見えない遺跡は重要」と考える。「極端に言えば長崎の町のどこでも史跡になりうる。失われたものと残ったもの。両面から被爆の実相を伝える新たな方法が求められる」
原爆の痕跡は足元の地面の下に今もある。だが、それを「保存されている」とする見方には異論もある。
「地下に保存なんて詭弁(きべん)。実際に見て、被爆の実相を追体験できないと」。被爆遺構の保存運動に携わってきた竹下芙美さん(73)は訴える。1996年、爆心地公園の工事で被爆当時の地層が出土したが、一部を除き、埋め戻された。「市は本当に平和を発信する気があるのか」
市は被爆建造物や樹木をリスト化し、98年に保存制度を設けた。だが、救護所になった旧新興善小校舎をはじめ、16件が解体などで姿を消した。竹下さんは市の遺構保存の姿勢に不信感を持っている。