被爆者団体 「なぜ伝わらないのか」 高齢化で弱まる運動
今月9日、県議会議場。傍聴席に陣取った被爆者らは、その瞬間を固唾(かたず)をのんで見守った。
「起立多数。よって本意見書は可決されました」
安全保障関連法案の今国会成立を求める意見書の可決を県議会議長が告げると、傍聴席から落胆と失望の声が漏れた。
集団的自衛権の行使を可能にする法案に、被爆県の県議会が全国に先駆けて賛成した-。「『長崎から戦争を』と呼び掛けるようなもの。被爆地としてあり得ない」。被爆者団体の一つ、県平和運動センター被爆連の川野浩一議長(75)はこう吐き捨てた。
被爆者運動とは何か。川野議長は、後障害や差別、偏見で苦しむ被爆者の援護、救済と同時に、この国を二度と戦争に向かわせないための活動だと思っている。大多数が戦争体験者だった時代は、広範な反戦の思いを前提にしていた。しかし、今はどうか。「なぜ伝わらない」。いら立ちを抱え、被爆者たちは腰をかがめ、手すりをつたい、議場を後にした。
被爆者の平均年齢は80歳を超えた。被爆者運動は、高齢化とともに、弱まりつつある。県内の被爆者健康手帳所持者は約4万7千人(5月末現在)。20年間で3万9千人以上が亡くなった。県被爆者手帳友の会の井原東洋一会長(79)は「ここ10年で支部が半減した」と話す。支援者も高齢化し、減った。
長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)の山田拓民事務局長(84)は、かつて市外に支部が10組織程度あったと記憶する。しかし今は数を把握することすらためらわれるという。松浦市を含む北松支部は7~8年前から休止状態。支部活動をリードしてきた”年配者”が亡くなり、活動が止まった。
長崎被災協などでは、被爆2世の組織をつくり、被爆体験の記憶継承や2世の援護などに向け、新たな活動を模索。だが、加入状況はまだ限定的だ。
県原爆被爆者島原半島連合会のうち、島原市の会員でつくる島原支部は、4年前に解散。最盛期600人ほどいた会員は解散時、100人程度まで減少していた。支部長だった宮崎正光さん(78)は、市内に建立した原爆死没者の追悼碑を支部解散後も1人で清掃している。
「私が死んだら誰が引き継いでくれるのか」。宮崎さんは寂しそうにつぶやく。
◇
被爆者を中心にして歩んできた「被爆地」としてのナガサキ。原爆投下、終戦から間もなく70年がたち、被爆者の高齢化と減少が顕著となろうとする今、ナガサキはどこへ向かうのか。直面する課題を探り、譲れない原点について考えた。