つなぐ広島・長崎 被爆樹木をめぐる物語 2

写真や手紙を手に、長崎さんとの交流を振り返る笹岡さん=広島県東広島市の自宅

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つなぐ広島・長崎 被爆樹木をめぐる物語 2 原点 傷ついた子らとの交流

2015/07/22 掲載

つなぐ広島・長崎 被爆樹木をめぐる物語 2

写真や手紙を手に、長崎さんとの交流を振り返る笹岡さん=広島県東広島市の自宅

原点 傷ついた子らとの交流

広島の被爆エノキの絵本をきっかけに、文通を始めた老文学者と少女。横浜市の長崎源之助さんと、広島市立翠町中1年だった笹岡(旧姓国本)由香さん(35)の出会いは、新たな物語を紡いでいく。
文通を始めた翌年の1993年8月6日、広島の被爆エノキの前で2人は初めて顔を合わせる。その場には、平和教育の一助として被爆エノキ2世の苗木を県内外の学校に贈る活動に取り組む広島の被爆者、福田安次さん(90)もいた。
「翠町中にエノキ2世はないけど、みんなの心に平和への思いを広めていきたい」。笹岡さんの言葉に心を打たれた福田さんは、翠町中に苗木を贈ると約束。翌春に植樹が実現した。その翠町中は、県外の学校との平和交流に熱心で、89年から修学旅行先の長崎市の山里中と交流していた。
笹岡さんは94年、中学3年の修学旅行で長崎を訪れた。「山里中でも1本育ててみませんか」。笹岡さんの提案が実を結び96年3月、山里中の正門脇に苗木が植えられた。翠町中、山里中の交流は2004年まで続き、5メートルを超える背丈に育った山里中のエノキは今も生徒を見守っている。

文通は続いた。体育祭でリレー走者になったこと、進学の悩み…。「私と長崎先生を引き合わせてくれたような、本との出合いを結ぶ仕事がしたい」。中、高校を卒業した笹岡さんは東京の大学に進学。念願の出版社に入社する。一方の長崎さんは大腸がんや白内障などを発症。「書く気が全く起きない」と気弱な言葉をつづるようになった。
「もう一度筆を執って」。07年春、笹岡さんは思いを伝えたが、長崎さんは「戦争児童文学は売れない」とためらっていた。笹岡さんは最後のつもりで促した。「どうしても先生の作品が読みたい」。その思いが長崎さんを動かした。
横浜の自宅を訪ねた笹岡さんに、長崎さんは語り始めた。引き揚げ後に入院した大村海軍病院で、原爆で傷ついた子どもたちと仲良くなったこと、大村湾沿いを走る蒸気機関車(SL)を一緒に見たこと、横浜に帰るとき一人も見送りに来てくれなかったこと-。「入院中の長崎の子どもたちからすれば、1人だけとっとと退院して裏切られたような気がしたに違いない」。長崎さんはケロイドを負った子たちの後の人生を考えると暗たんたる気持ちになったことや、退院で浮かれていた自分を責めたことを吐露。作家としての原点、大村海軍病院での体験を初めて書くことに決めた。タイトルは「汽笛」と名付けた。