苗木 命と記憶 受け継ぐ
長崎市中心部から北に1時間ほど車を走らせた「ながさき県民の森」。夏の日差しを浴びて1メートルほどに育った約30本の苗木が青々と葉を茂らせている。
70年前、広島原爆で被爆したエノキの木から命を受け継いだ「被爆エノキ3世」の苗木だ。ことし、広島原爆の日(8月6日)と長崎原爆の日(同9日)の間の同8日、大村市の国立病院機構長崎医療センター敷地内に植樹される。なぜ、広島の被爆樹木の”孫”が本県の「県民の森」で育てられているのか。どうして長崎医療センターに植樹されるのか。広島と長崎、過去と現在、未来をつなぐ”被爆の記憶”の継承の物語は、一人の児童文学者と少女の出会いが深く関わる。
「げんばくをうけた、一本のエノキの木が、ひろしまをものがたる…。平和への ねがいを こめて 子どもたちは エノキを まもりつづけた。」
絵本「ひろしまのエノキ」。広島に原爆が投下され、爆心地の北約1キロで被爆し傷ついたエノキの木を戦後、地元の小学生が世話した実話に基づく物語だ。児童文学者の長崎源之助さん(横浜市出身、2011年4月に87歳で死去)が手掛けた。
1945年8月6日午前8時15分、1発の原子爆弾が広島の上空約600メートルでさく裂。市街地は焦土と化し、同年末までに約14万人が亡くなった。エノキも熱線に焼かれ幹に大きな空洞ができた。地元の基町小では戦後、児童が世話を続け79年、被爆エノキを守る運動を児童会で決定。84年の台風で幹の上半分が折れるが、児童や樹医の世話で一時は新芽が吹き出すまで回復した。89年に枯れてしまったが児童は種から2世を育て、今も元の場所や校庭で命や平和の尊さを伝えている。
一方、長崎さんは20歳の時、中国に出征。終戦後、引き揚げで46年2月、ようやく佐世保に上陸した。大村に当時あった大村海軍病院(現・国立病院機構長崎医療センター)に1カ月ほど入院。そこで長崎原爆で被爆した子どもたちと知り合い、その出会いが後の人生に大きく影響、戦後は児童文学者として生きた。小学校の教科書にも載った「つりばしわたれ」など、主に子どもたちの目線から戦争のむなしさを描き、70年には自宅に私設図書館「豆の木文庫」を開設した。
長崎さんは、広島の被爆エノキをめぐる物語に特別な思いを抱いていた。妻の和枝さん(88)=横浜市南区=は「原爆に対して、書かなくっちゃという思いがずっとあったみたいです」と代弁する。絵本「ひろしまのエノキ」は88年に出版された。
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92年春、横浜市に暮らす長崎さんの手元に1通の手紙が届いた。差出人は広島市内の中学1年の女子生徒、笹岡(旧姓国本)由香さん(35)=広島県東広島市=。笹岡さんは絵本「ひろしまのエノキ」に感銘を受け、「自分も平和のために何かできないか」とつづった。
長崎さんは手紙を受け取った直後、脳梗塞で倒れ、入院。退院後、すぐに返事を書けなかったことを手紙でわび、こう記した。
「毎年エノキに会いにいっていますが、今年は病気で行けそうもありません。もし、あなたにひまがあったら見にいってもらえないだろうか」
笹岡さんはその年の8月6日、家族でエノキを見に行き、長崎さんに返事をしたためた。こうして2人の文通が始まった。