反核の精神 継承担う人材育成を
来年の日本原水爆被害者団体協議会(被団協)結成60年を前に、被爆者の高齢化が課題として切実さを増している。被爆者の減少で、活動できなくなる被爆者団体も出てきている。6月の定期総会を前に、田中熙巳(83)が事務局長の退任を申し出たのも“ポスト被爆70年”の被爆者運動を担う人材育成が必要だと考えたからだった。
「『被爆体験の継承』はできないという気がする。体験者がどういう生き方をして、どういう運動をしてきたかを、接した人が語っていってくれればいい」
直接の被爆体験を持たない世代への継承について、田中はこう考える。原爆の惨禍のすさまじさゆえに、被爆体験に根差して繰り広げた運動を同じように引き継ぐことには限界がある。しかし「原爆に対する憎しみを、さまざまに表現してきた」被爆者の心情は、被爆者それぞれの人生を伝えることで引き継げるのではないか。「核兵器の存在を許してはならない」という精神の継承につながるのではないか、と。
一面では、自身もそうだった。被爆者としての怒りや不安は、もちろんあった。しかし振り返れば、他の被爆者との触れ合いが大きな原動力だった。「被爆体験を背負いながら、付き合えば付き合うほどいい人ばかりだった。自分よりひどい被害を受けた人たちの訴える機会をつくるために、力を尽くすことができる。だから、やってこれた」
田中の妻晴子(82)は、被爆者運動に長年携わり、80歳を超えても要職を担う夫の心情に理解を示す。「誰かがやらなきゃいけないこと。もっと熱心な人もいらしたけど、みんな亡くなってしまったから…」
晴子は原爆投下から約3カ月後、親の郷里の長崎に移り住んだ。自身は被爆者ではないが生々しい被害の傷痕を目にした。同級生も親戚も皆、被爆していた。田中とは終戦直後の高校時代、男女共学になった最初のクラスで同級生だった。田中が就職した直後の1961年に結婚。3人の子を育て、家庭を支えてきた。
「辞めたら旅行にも行ける、と話していたんですよ」。いったんは事務局長退任を申し出た直後の会話を、田中は振り返る。妻は「どうせ辞めないんでしょ」と、気にも留めないふうだった。留任が決まり、妻の“予言”は当たった。被爆70年の夏、田中はこれまで以上に多忙な毎日を送っている。=文中敬称略=