ナガサキの被爆者たち 田中熙巳の生き方
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被団協事務局で執務に当たる田中さん。事務局長に復帰後、15年間務めてきた=東京都港区

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ナガサキの被爆者たち 田中熙巳の生き方 4 陰影 性に合った“調整役”

2015/07/19 掲載

ナガサキの被爆者たち 田中熙巳の生き方
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被団協事務局で執務に当たる田中さん。事務局長に復帰後、15年間務めてきた=東京都港区

陰影 性に合った“調整役”

田中熙巳(83)が、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の活動に携わるようになった1970年代後半。被爆者は国際社会へ訴えを広げていった。十分に知られていなかった被爆の実相に国際社会は驚き、核兵器廃絶を求める世論が盛り上がりを見せていく。
82年、米ニューヨークで開かれた第2回国連軍縮特別総会で、当時被団協代表委員で長崎の被爆者運動のリーダー、故山口仙二が演説。「ノーモアヒバクシャ、ノーモアウォー」の叫びが世界に響いた。田中は総会前、被団協の代表として国内の他の非政府組織(NGO)との間で発言者を決める交渉に当たり、被団協代表団の事務局長として渡米した。
「仙ちゃん(山口)はいろんな人に好かれていた。夜通し飲んでみたり、大騒ぎしたりして、お互いいいところも悪いところもあったが、そういう人たちが本当に亡くなってしまったなあ」。田中は今、長年の被団協の運動を通じて心を交わした仲間たちを寂しげに懐かしむ。
当時、田中は東北大(仙台市)工学部の研究者の傍ら、被団協の東北ブロック代表理事、事務局次長などをへて85年、同市在住のまま事務局長に就任。87年にいったん退任したが、退職後の97年に事務局に復帰し、2000年から2度目の事務局長を務めてきた。
“調整役”が性に合った。「被爆者は年齢も考え方も違い、各県組織の集合体でもある中で、自分の考えを押しつけるようなやり方ではない方が良かった。変に隠したりせず、何でも言うようにしてきた」。強烈な印象や派手さはないが、交渉の手腕や責任感の強さ、労苦を惜しまない誠実さが、周囲から信頼された。
挫折もあった。87年の事務局長退任は、過労によるストレスが原因だった。当時は仙台市と東京との間を新幹線で行き来し、非常勤で要職をこなした。並行して大学で博士論文の執筆に取り組んでいたが、やがて自律神経の失調による不整脈を発症した。
「被団協が大変な時期に、(大学の)仕事も一番集中しなければならなかった。『やればやれる』と思ったが、今考えると傲慢(ごうまん)だった」。病気を克服し、博士論文を書き上げたのは92年。定年で退官した96年、埼玉県に移住した。「被団協の仕事をするために埼玉に来たようなものだった。覚悟していた」
=文中敬称略=