ナガサキの被爆者たち 田中熙巳の生き方
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今年のNPT再検討会議で被爆者を代表し演説。1977年の原水禁大会での発言が、その原点となっている=5月1日、米ニューヨークの国連本部

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ナガサキの被爆者たち 田中熙巳の生き方 3 転機 「惨状」知る者の責任

2015/07/18 掲載

ナガサキの被爆者たち 田中熙巳の生き方
  3

今年のNPT再検討会議で被爆者を代表し演説。1977年の原水禁大会での発言が、その原点となっている=5月1日、米ニューヨークの国連本部

転機 「惨状」知る者の責任

日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は、核兵器廃絶とともに「国家補償に基づく被爆者援護」の実現を要求の柱に掲げ、死没者と被爆者双方に対し、国の償いを求めている。
「人間性のかけらもなく殺された犠牲者に、戦争を起こした国の謝罪と補償を求めること。身近な人の死にざまを見て、それが放置されるのは絶対に許せない、という被爆者の強い思いだ」。いまだ実現しない悲願を語る被団協事務局長、田中熙巳(83)の表情はいつも決然としている。無残に命を奪われた死没者と苦しみ続ける被爆者。その姿が脳裏に刻まれているからだ。
被爆後、健康面の不安を感じることが少なかったこともあり、被爆者手帳は取得したものの被爆者としての自覚は薄かったという。「原爆で、自分以上に苦しんだ人はたくさんいる」との思いが背景にあった。そんな田中が被爆者運動の最前線に立つきっかけになったのもまた、自分以外の原爆被害者の存在だった。
1954年3月、第五福竜丸が米国の水爆実験により被ばくするビキニ事件が発生。原水爆禁止を求める国民世論が沸騰し56年の被団協結成につながった。田中は60年に大学を卒業し東北大(仙台市)の工学部助手として同市に移住。10年ほどしたころ、同市内で被爆者の集まりに出席した。
年配の人が多く「お世話をしたい」という気持ちで、宮城県原爆被害者の会の事務を手伝い始めた。73年に同会の事務局長に就任。77年夏、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)と原水爆禁止日本協議会(原水協)が分裂以来、14年ぶりに開いた原水爆禁止統一世界大会に、宮城県の被爆者の一人として出席した。
大会で発言予定だった被爆者2人のうち長崎の代表者が体調を崩し、急きょ代役を要請された。「私は被爆者じゃない」と断り続けたが、周囲の説得に最後は折れた。「どういう体験をしたのか聞かれ、親戚を亡くしたことなどを細かく話したら『それが被爆者だ』と言われたんです」
被爆者が声を上げられるようになったことへの感謝と、被爆の実態を広く知ってほしいとの思いを演説で語った。満場の拍手に、あの日を直接知る者の言葉の力、語る責任を感じた。「やるしかない。これからは被爆者として発言していこう」。演壇を降りて思った。以前のわだかまりは消えていた。
=文中敬称略=