原点 「私は被爆者」言えず
「瞬間に真っ白な空気に包まれたような、そんな感じだった」
70年前の夏。田中熙巳(83)は、爆心地から3・2キロの長崎市中川町の自宅で被爆した。旧制県立長崎中1年の13歳。爆風で外れたガラス戸や格子戸の下敷きになったが、奇跡的に無傷で済んだ。家族にも大事はなかった。その日から、数々の惨状を目にした。
避難した近所の防空壕(ごう)には、血だらけの住民が数多く集まっていた。救護所になっていた学校の講堂は、「痛い痛い」「お母さん」という、重傷者のうめき声であふれていた。遺体を校庭で焼く臭いが、1週間ほどの間、街を覆っていた。
原爆投下から3日後、親戚の安否を確かめに爆心地付近に足を踏み入れた。伯母と大学生のいとこは、炭のような焼死体になっていた。もう一人の伯母は対面する直前に死亡しており、荼毘(だび)に付した。この伯母と同居していた祖父は大やけどで数日後に亡くなり、大きなけがはなかった伯父も、やがて高熱に苦しみながら死んでいった。
街には何百という遺体が散乱し、重傷者が放置されていた。「私にとっての被爆者は、本当にひどい被害を受けた人たち。体や家を焼かれ、健康を害し、急性症状が出た人。そういう人たちを見ているから『私は被爆者だ』なんて、とても言えなかった」。惨禍を目撃した当事者ゆえに、そうした思いを長い間、背負っていくことになった。
1932(昭和7)年、満州(現在の中国東北部)生まれ。父の急死で38年、2人の伯母の家族を頼って長崎市に移住していた。頼りにした親戚の死もあり、終戦直後は貧困に苦しんだ。51年に県立長崎東高を卒業。その年、東京で受けた大学の入学試験は不合格だった。1年後に上京し、都内で働きながら毎年受験に挑戦。合格したのは56年、23歳だった。
同年8月9日、長崎市で第2回原水爆禁止世界大会が開幕。10日の原水爆被害者全国大会で、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が結成された。大学の夏休みで帰省していた田中はたまたま、会場でこの瞬間に立ち会った。帰京後、当時運営に携わっていた大学生協の機関紙に寄稿した。「胸うつ被爆者の訴え」と題し「長崎の人間として、一緒に運動を促進していこうと誓った」と結んだ。しかし、自身の被爆に触れることはなかった。
=文中敬称略=