佐世保郵便局電話課 岡村スマさん(88) 当時18歳、電話事務員
電話交換台の上には、骨つぼが幾つも並んでいた。中で眠るのは、つい先日まで一緒に働いた同僚たち。「早く家に帰れるといいね」。最後の1人が家族らに引き取られるまでの数カ月間、毎日つぼを見上げてはそっと手を合わせた。
佐世保市相生町の佐世保郵便局電話課(現NTT西日本長崎支店佐世保営業支店)。一般電話だけでなく軍用通信をつなぐ重要な機関だった。私は番号案内や市外通話の受け付けを担当。下苗手免(現早苗町)の自宅から通い、忙しい日々を送った。
6月28日は休みで郊外の矢峰町にある親戚宅に泊まっていた。29日未明、警報を聞き防空壕(ごう)に避難。被害は免れたが、東の空が赤々と燃えていた。「どこがやられたのかな」。そう思いながら過ごした。
朝、親戚宅から直接局舎へ向かった。市街地はがれきの山。あちこちで水道管が破裂し、焼け跡からまだ煙が上がっていた。鉄筋コンクリート3階建ての局舎が遠くに見えた時は「無事だった」とほっとした。
しかし、局舎前には昨夜勤務していた同僚たちが並べられていた。同期の子が人工呼吸されていたが、助からなかった。窒息死だったのか、顔はみな奇麗だった。
助かった職員の話では、最後に軍用通信線が途切れたのは空襲開始から約2時間後。それまで、同僚たちは懸命に通信手段を守り続けた。断線後に退避命令が出たが、すでに局舎は炎と煙に包まれていたという。緊急出勤した職員も負傷。片足を失った同僚もいた。
電話交換台と命をともにした34人は、お国のために力を尽くした“英雄”。本人も本望だろうと、そのときは思った。ただ、学徒動員で来ていた14歳の少女たちの遺体には胸が痛んだ。
遺体を火葬場に運んだ。炉が足りず、トタンの上に10人ほど並べ、重油をかけて焼いた。骨は、同僚の父が用意したつぼに入れた。
1、2日後には電話回線が復旧。電話交換台が持ち込まれ、仕事が再開した。骨つぼは交換台の上に並べられ、少しずつ家族らに引き取られた。