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戦後70年 ながさき 佐世保大空襲の記憶 2 篠崎年子さん(97)=佐世保市小島町= 当時27歳 教諭 炎に消えた学びや

2015/06/24 掲載

篠崎年子さん(97)=佐世保市小島町= 当時27歳 教諭 炎に消えた学びや

空はまだ薄暗く、目の前で燃える校舎は「鮮やか」にさえ見えた。
1945年6月29日未明。爆撃が終わり防空壕(ごう)を出ると、すぐそばの勤務先、保立国民学校(佐世保市保立町)は炎に包まれていた。「きっと家も駄目だろう」。2人の息子を抱えたままぼうぜんと立ち尽くした。
教職に就いて9年目。6月27日は、空襲のうわさが流れたため、気を張り続けた。夜は通帳や印鑑、非常食を入れた袋、防空頭巾を枕元に置き、モンペを履いたまま寝た。平穏に迎えた翌28日は蒸し暑かった。降りだした雨は夜になり、強くなった。「きょうはないだろう」。安心してゆっくり寝た。
ズシンと響く異様な音。一瞬で目が覚めた。3歳の長男の手を引き、1歳の次男を背負って、石坂町の自宅近くにある保立国民学校の防空壕へ向かった。学校の「奉安殿」から運び出したご真影を抱える同僚の姿を見て、ほっとした。
自宅に戻ろうと、防空壕を出たのは29日午前4時ごろ。家に残っていた夫は無事で、家屋にも被害はなかった。あきらめていただけに、うれしくて涙が出た。
大空襲では、保立を含む九つの国民学校が焼失。別の学校では、奉安殿からご真影を取り出そうとした教諭が爆弾の直撃で亡くなったと聞いた。当時の教諭にとって、ご真影を守ることは、それほど重要な“使命”だった。
児童の安否は、なかなか分からない。佐世保から疎開していたり、時には「あそこは一家全滅」といううわさを聞いたりと、さまざま。連絡手段がないため校区内を歩き回り、授業再開をメガホンで呼び掛けた。
数日後、授業は再開したが、空襲前に55人いた受け持ち学級の児童のうち、集まったのは20人ほどだった。保立国民学校では、焼けた教室の代わりに、学級ごとに近くの寺や民家を借りて授業をした。いたずら盛りだった子どもたちは、いつになくおとなしかった。児童を襲った悲劇を考えると、胸が引き裂かれる思いがした。