遺骨と復員、そして被爆
「連隊は編成替えしてビルマ(現ミャンマー)に行っている。次にまたどこかへ行くという話もある。(日本に)帰るなら今だ」。川口支隊の水谷茂=当時(24)=は1943年4月、ラバウルで曹長から復員を勧められた。反発したが、「帰国途中に爆撃を受けて死ぬかもしれん。どうせ死ぬなら早いほうがいい」とも思い、帰国を決めた。
200人分の日本兵らの遺骨も一緒に祖国を目指すことになった。遺骨といっても本人の骨や頭髪は手に入るはずもなく、水谷は現地の小石や小枝を拾って白木の箱に入れるなどした。頼まれ、紙に「○○上等兵の霊」などと書き添えた。
既にラバウルでも爆撃が激しくなった。水谷が乗った輸送船はパラオを経由し、潜水艦や爆撃機の標的にならないよう蛇行しながら航行。毎晩、潜水艦の接近を知らせる警報が鳴り、「いつドカーンとやられるかと思っていた」。
どれくらいたったか。四国が見えると船員が言った。「内地が見えたぞ」。皆で喜び合った。
宇品港(広島県)で下船した。国内は出征前と変わらないように映った。「戦地では今日死ぬ、明日死ぬと覚悟をしていたのに」と複雑な気持ちになった。
しばらくして長崎市に帰郷。街中で七夕飾りを見たのを覚えている。旭町の鉄工所で働き始め、ヨシ子という女性と婚約。竹の久保町に新居も用意し、結婚するばかりとなった。
45年8月9日、早めの昼食を取ろうと鉄工所の食堂に寄った際、窓ガラス越しに強烈な閃光(せんこう)を見た。爆心地から3キロ。テーブル下に潜ると同時にがれきの下敷きになった。
どうにか、はい出てヨシ子を捜しに新居へ。一帯の家々はつぶれ、工場の鉄筋はあめ細工のように曲がっていた。顔の皮膚が焼けて垂れ下がった人がいたり、頭が割れた幼児を抱いた母親がいたりしてこの世とは思えないありさまだった。
夕方、ヨシ子と稲佐の防空壕(ごう)で再会し、互いの無事を喜んだ。平戸小屋町のヨシ子の実家が倒壊を免れたため、身を寄せた。
父が疎開先の南高多比良町(現雲仙市)から駆けつけ13日に再会。あちこちで死者を焼く炎を見たという。ヨシ子も一緒に同町に行くことになり、長崎駅から鉄道を利用。並行して走る路面電車終点の大橋には一台の車両があり、つり革に下がったままの5、6人の死体が車内に見えた。
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生前の水谷は2014年10月の取材時、世界各地の紛争を引き合いに「戦争は殺し殺されるものというのは誰にでも分かっているのに、なぜやめられないのか」と話していた。それでも「人間はばかじゃない」とし、希望の言葉を口にした。「いつかきっと戦争のない地球になる」と。