戦後70年 ながさき 戦争の残照 旧日本兵の証言 元陸軍上等兵 水谷茂さん(2014年12月、96歳で死去)=長崎市出身= 中

水谷さんが長崎新聞社の取材を受け、死去した後に見つかった原稿。戦争体験とともに平和への願いも記されている

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戦後70年 ながさき 戦争の残照 旧日本兵の証言 元陸軍上等兵 水谷茂さん(2014年12月、96歳で死去)=長崎市出身= 中 生存 心からうれしく

2015/06/22 掲載

戦後70年 ながさき 戦争の残照 旧日本兵の証言 元陸軍上等兵 水谷茂さん(2014年12月、96歳で死去)=長崎市出身= 中

水谷さんが長崎新聞社の取材を受け、死去した後に見つかった原稿。戦争体験とともに平和への願いも記されている

生存 心からうれしく

1941(昭和16)年12月23日午後10時すぎ、川口支隊の水谷茂=当時(23)=が乗った輸送船「香取丸」は、ボルネオ島北部のクチン沖で魚雷攻撃を受け、沈もうとしていた。左足を角材に挟まれた水谷は「こんな所で死んでたまるか」と必死に抜け出し、海へ。肩の銃を捨て、泳いでいると海軍が引き上げてくれた。

海軍は「陸軍さんは銃や剣を着けてきた」とあきれ顔。装備は何があっても手放すなときつく言われていた。「教えを守ったために沈んでいった仲間もいた」。香取丸は煙突を5分の1ほど海面に残し沈没した。

救助された水谷の左ひざは腫れ、足を引きずる状態に。だが「次の作戦はどうする」と聞かれ「行きます」と即答した。「若かったし偉そうにしたい気持ちが勝った」

翌朝、救助された兵が集まった。戦友の顔が見え、互いに抱き合った。出征時は死を覚悟していたのに、生きていることが心からうれしかった。ただ、次々に戦死者が甲板に並べられるのを見ると、生と死は紙一重だと身に染みた。

クチン上陸後は、陸路で赤道直下のポンチャナクに向かった。ジャングルの道なき道を歩き、途中で食料が尽きてブドウのような木の実を1週間食べて命をつないだ。イノシシを仕留めたこともあった。

途中、マラリアに感染し発熱。「殺されてもいいから休む」と草むらに寝た。熱が下がったころ中隊がやってきて「ここを通る日本軍はわれわれが最後だ」と言うので、必死について行った。中隊の衛生兵からマラリア用薬液の注射を尻に打ってもらう寸前、「敵襲!」の声。尻を出したまま逃げた。敵は中隊が機関銃で追っ払い、やっと注射を打ってもらった。

42年4月、フィリピンのセブ島へ。抑留された日本人が解放を喜び、皆が列になり「万歳、万歳」と迎えてくれた。さらに同29日、ミンダナオ島に上陸。進軍が予定より早く、敵と勘違いした味方の戦闘機に爆撃されたこともあった。水谷は数週間の駐屯でアメーバ赤痢にかかりマニラの陸軍病院に1カ月間入院。このため、パラオに向かった川口支隊から取り残された。

退院後、川口支隊がガダルカナル島で戦闘中と知り、同島への中継地点、ブーゲンビル島ブインへ。そこで残留兵数人と合流、とどまることになった。

43年2月、日本軍は多大な犠牲を払ってガダルカナル島から全面撤退。ブインも危ないとして水谷らは日本軍の拠点があるニューブリテン島ラバウルに移った。4月、曹長から「いまなら兵役満了で日本に帰れるぞ」と促された。水谷は「長く戦地におって上等兵のままで帰れますか」と反発した。

(文中敬称略)