南方へ転戦 よぎる「死」
1941(昭和16)年12月8日。仏領インドシナ(現ベトナム)のカムラン湾に日本軍の潜水艦や駆逐艦、輸送船などが集結した。艦船がずらりと並んだ壮観な光景。第35旅団長の川口清健少将率いる「川口支隊」の一員となった陸軍歩兵第124連隊上等兵、水谷茂=当時(23)=は高揚していた。
水谷は18(大正7)年、長崎市丸尾町で生まれた。38年、20歳で徴兵検査を受け合格。日中戦争のただ中で、祖父母は「茂が兵隊に通った」と喜んだ。教育召集をへて翌年5月半ばに本召集。ほどなくして門司から中国へ渡った。『草むしぬ 歩兵第百二十四連隊史』(歩兵第百二十四連隊史刊行会)などによると同連隊は当時、数度の作戦に参加しているが、「派手な戦闘は経験しなかった」と水谷は振り返る。
広東の警備と香港近くの島での訓練が中心。敵前上陸訓練は剣、銃、弾薬、食料を携帯し、ロープはしごを登るなどというものだった。「今度はドラム缶のような爆弾が来る所に行く」として上官から頭髪や爪を遺品として残すように言われ、今後の厳しい戦いを予想した。
41年12月1日、1等兵から上等兵に昇進。数日後、川口支隊は輸送船に分乗し、広東からカムラン湾へ。同8日、歩兵が乗った輸送船団を海軍艦船が囲むよう配置。そこで宣戦布告文が読み上げられ、続けて真珠湾で多大な戦果を挙げたことが報告された。水谷は布告文を聞くうち、「日本はやむにやまれぬ事情で開戦に踏み切るのだ」と義憤に駆られる一方、戦死の二文字もよぎった。だが「諸君の命をこの川口にくれ」と軍刀を握り締めた川口少将から言われ、「よーし見とれ、やるぞ」と勇気がわいてきた。
日本軍は、ジャワ島(現インドネシア)攻略作戦の第一歩として、近接するボルネオ島の飛行場と油田の確保を目指した。川口支隊が同島侵攻を担い、輸送船はカムラン湾を出発。水谷は船内で、同島北部、英領ミリの油田を奪う作戦に行くのだと知った。ミリを目前にして、油田は既に黒煙を噴き、燃え上がっていた。先兵の上陸に気付いた英軍が火を放って逃げたのだ。ミリ沖に停泊した輸送船団は、オランダ機の攻撃を受けたが弾は外れ、水柱が何本も立った。
次は、飛行場のあるボルネオ島クチンに輸送船「香取丸」で向かった。同23日午後9時ごろ、クチン沖に到着。夜の上陸作戦に備えていたところ、突然ドーンという衝撃があった。敵潜水艦の魚雷を船体後部のマスト直下に受けたのだ。傾き始める船体。水谷は逃げる途中、角材に左足を挟まれ、身動きが取れなくなった。「ここで死ぬんか」。父親ら家族の顔がぐるぐると脳裏に浮かんだ。(文中敬称略)
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太平洋戦争では多くの兵士が南方の島々に出征、命を落とした。昨年取材に応じてもらい、その後死去した長崎市出身の旧日本兵の生死を懸けた体験を紹介する。