街並み撮影 復興を実感
戦後、長崎市職員として歩み始めた川口和男(86)=長崎市銭座町=は、廃虚からの再スタートに期待を込め、仕事の合間などにカメラで街中を撮って回った。ただ、フィルムは簡単には手に入らない時代。「無駄にしないように構図を決め、念を込めて撮ったね」
惨めで残酷な光景が広がったあの日から7年、甚大な被害から立ち上がろうとする長崎。岩川町に立つ簡易住宅に復興を感じ、うれしさをかみしめた。
1952年8月15日朝、玉園町の観善寺から長崎港を撮影した。立ち並んだ家々。「長崎らしい港と一緒に、復興した様子を収めたかった」。未来を想像しながらシャッターを切った。
西浜町-思案橋間の路面電車は53年に開通し、全路線が復旧。54年には桜町の市役所側に立体交差路が完成し、戦災復興のシンボルとなった。
インフラ整備が進み、街には活気が戻ってきた。夜はどこの居酒屋も満員状態。川口も仕事帰りに同僚らと飲みに出掛けてはたわいのない話で笑い合った。テレビ放送も始まり、プロレスラーの力道山が活躍したころだ。
市庁舎は、14年建築で老朽化が進んでいた。「雨漏りもひどく、よく屋根に上って応急処置をした」。58年に庁舎で火災が発生。市内有数の建築物だったが、解体された。
被爆70年、戦後70年となる今年。川口はあらためて写真を見詰め、「たくさんの人たちの努力のおかげで長崎は、はい上がってこれた」としみじみ。そしてこう続けた。「戦争はこりごり。あの時代に逆戻りしてはいけない。平和を守り続けてほしい」
(文中敬称略)
=おわり=
◎「長崎の記憶」 写真を募集
長崎新聞社は2012年から、個人で撮影、保管する戦前、戦中、被爆後の長崎市と近郊部の風景、生活などが分かる写真を募集してきました。被爆者や戦争体験者の高齢化が進む中、貴重な写真の散逸を防ぎ、未来に向けて画像データとして保管するのが目的。社がスキャナーで保存し、写真自体は郵送か直接お会いして返却しています。
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