まさかの敗戦に虚脱感
「敗戦後の日本は虚脱感が漂っていた」-。満州事変、日中戦争、太平洋戦争と突き進んだ日本。「お国のため」「戦争に勝つため」。国民はそう思って我慢してきた。それがまさかの敗戦。しかも広島、長崎には原爆が投下され、壊滅的被害を受けた。衣服も自宅も、大事な家族も失った人が大勢いた。
川口和男(86)=長崎市銭座町=が手帳に記した1945年の日記は、8月13日に再開。滑石の空き部屋での家族6人の暮らしが淡々と断続的に書かれていて、原爆の惨状などには触れていない。
13日 起床7時届をかいてもらふ俺1人長崎まで荷物を作ってもらふ。
14日 起床6時50分兄が島原へ(不明)。夏上衣下衣シャツを洗ってもらふ。
親戚を頼って島原に行った兄から後日届いたはがきには、危険で食料もない長崎を離れて島原に来るよう記されていた。消印は8月17日。川口は「兄は終戦を知らなかったのだろう」と当時を振り返る。
17日 大東亜戦争終結の聖断下る
20日 起床6時ひるすぎ兼志兄さん除隊してくる途中奥山のバラック立ての家でめしをくったとのことでありカンパンを少しやったさうな
9月3日 起床6時雨ばかり降るので大困りする。
皆、敗戦のむなしさを感じながら生きた。「目標をなくした後の生活は、つらかった。戦時中と戦後のギャップは大きかった」
長崎原爆戦災誌によると、県の住宅営団は10月ごろ、爆心地近くの岩川町一帯に応急簡易住宅の建設を計画。個人住宅、市営の庶民住宅も少しずつ建設されていく。
全焼した自宅があった御船蔵町に川口らが戻ったのは46年秋。住宅を建て、暮らし始めた。畑仕事をしながら、長崎高等工学校に2年間通学。復興のつち音が高まってきた50年、長崎市役所に入庁、建築課に配属された。まちには簡易住宅が立ち並び、アイスクリームの店も。精神的ゆとりが徐々に戻ってきていた。
この頃、川口はツァイスイコンのカメラを購入。休日を使って、復興が本格化する街並みの撮影に出掛けるようになった。
(文中敬称略)