命と生活 語る手帳
3月27日 10時半頃空襲警報ありトンネルに入った。正午解除あり又作業に励む。
29日 起床7時。休暇だが敵艦戦機が空襲してきて危なかった。
小さな黒い手帳(縦11センチ、横7センチ)にびっしり記された1945(昭和20)年の日記。川口和男(86)は、長崎市銭座町の自宅で目を細めた。「懐かしいね」。16歳のころのこの手帳だけは手元に残してきた。
戦時下、国は軍需生産、兵力増強に全力を挙げ、学徒動員、出陣が次々行われた。川口は45年3月、旧制海星中を4年で繰り上げ卒業。この間、動員先は西彼香焼村(現長崎市)の川南造船所で、船殻工場で溶接したり組み立てたりした。卒業後も引き続き働いたが登校日が時折あり、学校とのつながりは持たされていた。早朝、御船蔵町の自宅を出て、通勤船で大波止から香焼に渡り、造船所へ。1カ月間で休みは2日ほど。旧制中卒の若者は造船所の戦力だった。
「船を造っても造っても沈没させられてね」。敗戦濃厚。重苦しさが日本を覆っていた。「負けるはずがない」「お国のため」。そう念じながら暮らした。
4月2日 敵沖縄本島上陸す。(実際は1日)
7日 起床7時登校日で遅く家をでる。病院に行き南瓜の種を買ってかへる。第二次の疎開あり大分立退の模様。
この疎開とは、空襲に備え、密集地に空白地帯をつくり延焼防止、消火活動に役立てようと家屋などを除去する建物疎開のこと。ほぼ強制的に実施された。
21日 起床6時下駄はいて行くが駅で空襲があり走ったので切れ、船にのりおくれた。8時半又行ったが船おらず11時で行く。さぼっていたら警務が調べたのですきを見て逃げる。
26日 長崎は大波止と駅が小型爆弾でやられた。
5月5日 仕事は全くなく山にさぼりにいったがたいくつだった。
空襲から逃げ、時に仕事をサボり。命の危険にさらされながら庶民生活はどこかしたたかで、おかしみがある。だが状況は悪化していく。(文中敬称略)
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被爆・終戦70年に当たり、長崎新聞社は2012年から個人所有の戦前-戦後の長崎の写真を募集してきた。写真と提供者を紹介するシリーズ第5部は、戦後購入したカメラ、復興期の写真と共に、原爆投下の年の日記を保管する男性を取材した。