模索 「負けたらいけない」
原爆投下による惨状を鮮明に覚えている被爆者の訪米は高齢化で難しくなっている。このため、核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせて米ニューヨークで展開された証言活動には、被爆時の記憶が乏しい若年被爆者や、記憶がない胎内被爆者も加わった。
4月25日、日本人学校を訪れた長崎原爆被災者協議会理事の田中重光さん(74)は、炎熱を浴びた被爆瓦や原爆投下前後の爆心地付近の航空写真を順番に回して見てもらった。「想像するために触ってほしい」。子どもも保護者も瓦の表面を興味深そうになで、写真に見入った。
4歳の時に爆心地から6キロで被爆した。あの時の閃光(せんこう)、熱、爆風はよく覚えているが、その他の詳しい状況は知らない。けが人のうめき声、異様な臭いがただよった国民学校の様子など、母親に聞いた話を合わせて語った。じっと聞き入る目の前の親子には、確かに伝わったように感じた。
同会議に合わせた訪米は10年ぶり。だが現地のマスコミの関心は相変わらず低く、日本政府の同会議での主張も以前と大して変わらず、むなしさを感じた。それでも、一緒に活動した同協議会長の谷口稜曄(すみてる)さん(86)が懸命に証言する姿に刺激を受けた。「語るしかない」。訪米中、その一点に集中した。
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原爆投下時に胎内にいた大平八千代さん(69)は被爆者歌う会「ひまわり」のメンバー。同会議に合わせた初の海外公演に参加した。8年前に加入し、自分が被爆者だと自覚するようになった。その後、乳がんになり「原爆のせいかも」と思うと、核兵器への憎悪が増した。
今回、核廃絶を求める国内外の市民団体の熱気を体感する一方、その思いが同会議に届かないはがゆさも感じた。「(次回の会議がある)5年後も元気でいるか分からない」。だからこそ力の続く限り歌い続けようとの気持ちを強くした。
「負けたらいけない」。同会議の閉幕を前に、自らにそう言い聞かせている。