被爆者歌う会「ひまわり」会長 平原ヨシ子さん(86) 投下国で「心に訴える」
声の張りは衰えるばかりで、歌詞を度忘れすることも多くなった。でも、強く意識していることがある。「聴く人の心に訴える」
70年前の8月9日。長崎市本石灰町(爆心地から3・6キロ)の路上で被爆。腕をけがしたが、高島の自宅に何とか戻った。親友の女性は三菱兵器製作所大橋工場(同1・1キロ)で大やけどを負った。
1カ月後、入院先の大村海軍病院を訪ねると、目と口以外、包帯で巻かれていた。その後、やけどの痕はケロイドになったが、彼女は生き延びた。
10年ほど前、一緒に爆心地公園へ行った。「平和になったね」。満開の桜を見上げてつぶやいた彼女の一言に、目頭を押さえるしかなかった。
7年前、元の職場の同僚と会ったのが転機。被爆者として“歌の語り部”にならないかと誘われ、「これだったらできるかも」と気持ちが動いた。
「もう二度と作らないで わたしたち被爆者を」
大舞台は8月9日の平和祈念式典。万感の思いを込めた合唱に数千人から拍手をもらった。「歌を聴いて胸がいっぱいになった」と言ってくれる人も。合唱の力を実感したが、「長崎で歌うだけでなく、平和の輪を海外にも広げないと」とも考えていた。
そんな気持ちが通じたのか、海外公演の話が舞い込んだ。昨年の同式典での合唱に感銘した米国の軍縮教育家、キャサリン・サリバンさんからだった。
来月2日、米ニューヨークの国連本部近くで初の海外公演に臨む。数曲を歌う予定で、現地の高校でも発表する。だが、米国では「原爆投下が戦争終結を早めた」とする正当化論が根強い。現地で「原爆被害を言うなら、真珠湾はどうなるのか」と言われるかもしれない。でも、そんなときはこう伝えようと思っている。
「1発で7万人余りが命を落とし、町が廃虚になった。そんな考えられないことが実際にあったということを知ってほしいだけ」
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被爆者が長年訴えてきた核兵器の非人道性。共感の輪が世界的に広がりつつある中、190カ国参加の核拡散防止条約(NPT)再検討会議が27日、国連本部で幕を開ける。現地に向かう被爆者に思いを聞いた。