存在 「目隠し」は外された
「惨めなこの姿を見てください。私が多くを語らなくとも、原爆の恐ろしさは分かっていただけるものと思います」-。若い女性の声が会場に響いた。母親らに抱かれ、舞台に上がった長崎原爆青年乙女の会の渡辺千恵子だった。
1956(昭和31)年8月に長崎で開かれた第2回原水爆禁止世界大会。NBC長崎放送(長崎市)は、初日のラジオ番組の音声を保管している。試聴すると下半身不随の渡辺が入場する際、会場はざわめきに包まれたことが分かる。同社放送記者として現場にいた新原昭治(83)=東京都東村山市=によると、参加者は渡辺の写真を撮ろうと押しかけ、「下がれ」と怒鳴り声も聞こえたという。
参加者は、渡辺の涙ながらの発言を食い入るように聞いた。「よくぞ長崎の苦しみを訴えてくれた」。入り口で背伸びして聞いた長崎民友新聞記者、宮川密義(81)も心を揺さぶられた。
大会事務局員の廣瀬方人(85)=長崎市若草町=は会場に入った際、「原水爆禁止」「被爆者救援」と大きく書かれた垂れ幕を見た。「無視されていた被爆者が、やっと日の目を見るのだ」。胸が熱くなった。
原爆投下翌月の45年9月に、米国の原爆開発計画「マンハッタン計画」副責任者、ファーレル准将は「広島、長崎では死ぬべき人は死んだ」と発言した。その後約7年にわたる占領軍の言論統制で、報道機関は原爆被害を十分に伝えてこなかった。「目隠しされていた」と語る廣瀬は、大会時に米国の牧師から「被爆者が生きているとは」と驚かれたことを覚えている。原爆投下から10年、被爆者はいなくなったことにされていたのかもしれなかった。
被爆者が、その存在と被害を訴えたことで「目隠し」は外された。8月10日付の長崎日日新聞は、渡辺の登壇で「大会はクライマックスに達した」と伝えた。
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大会2日目、全国組織の日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が産声を上げた。それは一つの到達点であり、始まりだった。大会後、被爆者で小学校教諭の江頭千代子は、長崎日日新聞の取材にこう答えている。「まず望みたいことは、身近な問題として被爆者身上相談所を設けてもらいたいことです。原爆症で働けない人の生活問題、治療問題、青年期に入る原爆患者の悩みに答えてくれるところが是非必要です」
国家から棄民のように放置されてきた被爆者は、援護の実現へと自ら歩みだした。(敬称略)