幕開け ため込んだ思いを口に
真夏の暑さ、3千人近い熱気-。超満員の県立長崎東高体育館は蒸し風呂状態だった。場内のあちこちに高さ50センチほどの氷柱が置かれ、扇風機約100台がうなりを上げる。会場に入れない者は外のテントで汗も拭わず、中の音声を伝えるスピーカーに耳をそばだてていた。
長崎原爆投下から11年後の1956(昭和31)年8月9日、第2回原水爆禁止世界大会が幕を開けようとしていた。
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大会前日、「原爆乙女」の一人が自ら命を絶った。大会の準備に奔走し、亡くなる直前まで海外参加者の出迎えに対応した19歳。遺書には「私の体はケロイドを治すための二十数回にわたる手術でも十一年前の私には帰すことは出来なかった」とつづられていた。原爆に深く傷つけられていた。
弔問した原水禁大会事務総長の安井郁(80年72歳で死去)は、大会初日の一般報告でこう訴えた。「現実の生活はなお極めて冷たいものがある。真に生きていて良かったと言えるまで、運動を進めないといけない」。白血病で闘病中だった広島の14歳の少女が亡くなったことも伝えられた。
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被爆地長崎は、戦後10年の55年に長崎国際文化会館(現長崎原爆資料館)が完成するなど、街並みの復興が進んでいた。56年には「もはや戦後ではない」が流行語にもなった。だが、被爆者の援護制度は皆無。原爆症を抱えながら家族のため日雇いの肉体労働に従事するなど、物も言わず地をはうように生きる被爆者の姿は無数にあった。
「大会会場に行ってみたが状況が分からず、すぐに帰った」と振り返るのは15歳時に被爆した内田伯(つかさ)(85)=松山町=。市職員となっていたが、会場の騒がしい雰囲気に嫌気がさした面もあった。内田は、このころ長崎国際文化会館の会議室であった町内会の寄り合いのことが忘れられない。
原爆の犠牲となった内田の同級生の父から不意に、「なんでうちの子ばかり死んだのか」と怒りをぶつけられたのだ。「なぜおまえだけ生きているのか」と言われたようにも感じた。だが内田自身、父ら家族5人を原爆で亡くしていた。何か言おうとしたが、言葉は見つからなかった。
「夫、妻、親、子がいない。戦争の爪痕が、まだ生々しかった」。生き残った人たちが被爆から10年余り、腹の底にため込んでいた思いを、ようやく口にし始める、そんな時代だったのかもしれないと内田は今思う。