記者 認識低く アレルギーも
1956(昭和31)年6月、長崎民友新聞(59年に長崎日日新聞と合併)の長崎市政担当記者だった宮川密義(81)=西彼時津町=は、市立上長崎小横の県立長崎東高を訪ねた。1週間ほど前に第2回原水爆禁止世界大会の長崎開催が正式決定。東高体育館が主会場となる予定だったからだ。
校長に対応を尋ねると、予想外の答えが返ってきた。「どのような大会か分からない。体育館を貸すわけにはいかない」。宮川は急いで東高を後にした。「大変なことになる」。8日付の長崎民友新聞の社会面トップ記事は「体育館使用お断り」の見出しが躍った。
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宮川の入社は、日本が主権回復した52年。編集局取材部に配属され、1年ほど教育分野を取材し、長崎市政担当に替わった。現在、原爆関連は被爆者援護施策などと密接に絡むため市政担当が取材に当たることが多いが、当時の宮川は「原爆取材」を意識することはなかったという。
「女性が原爆のことを話すと嫁にいけないという、そんな世相もあった。市民の雰囲気も、表に出て訴えるんだという意志は痛切には感じられなかった」。被爆の特殊性や重大性は、記者にも社会にもまだ十分認識されていなかった。「記者として被爆者に注目しだしたのは”原爆娘”の登場から」と宮川は記憶する。
東高会場問題は、県教委や県市を巻き込んだ騒動に発展した。東西冷戦で米国の影響下にあった日本では、米国に敵対するソ連が掲げる「共産主義」に厳しい視線が注がれていた。共産党員らを公職追放などした占領期のレッドパージ(赤狩り)の影響も、左翼思想へのアレルギーを助長。そういった中、原水禁大会は「確かにイデオロギー色が強いという世間の目があった」(宮川)。第2回大会では旧東ドイツなど共産圏4カ国の代表が日本政府から入国拒否されている。
だが、原水禁運動は実際、思想信条を超えて「原水爆禁止」の一点で結集した取り組みだった。無所属の長崎市議で長崎原爆被災者協議会(長崎被災協、56年6月結成)初代会長、杉本亀吉らも参加。会場問題は杉本らの働き掛けもあり、当時の知事、市長、市議会議長3者のあっせんで7月にやっと解決した。
大会運営費を捻出しようと、婦人会を中心にバラの造花を作って売る「白バラ募金運動」が盛んに行われ、長崎の街は慌ただしく大会本番へと向かっていく。 (文中敬称略)