第五福竜丸事件 「ひとごとじゃなかった」
1954(昭和29)年春、東京の東大病院の一室。顔面がただれ、ベッドに横たわる男性を前に、連合通信社記者、吉田一人(83)=東京都杉並区=は、言葉をのみ込んだ。他社との合同取材。男性はマグロ漁船の第五福竜丸の乗組員。矢継ぎ早に別の記者が質問し、吉田はメモに集中した。
同年3月、米国が南太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で実施した水爆実験。約160キロ離れて操業していた第五福竜丸は、大量の放射性物質を含む「死の灰」を浴びた。同船が取ったマグロなどからは高い放射線量を検出。乗組員23人は急性放射能症と診断され、同年9月、無線長の久保山愛吉=当時(40)=が死亡した。太平洋側は「放射能」を含む雨が降り、「ぬれるとはげる」などのうわさが不安を増幅させた。
広島、長崎に次いで三たび起きた核被害。米ソの核兵器開発競争が激化する中、国民の恐怖と怒りは、原水爆禁止を求める署名運動という形で波及していく。
吉田は、長崎原爆の被爆者だった。だから第五福竜丸事件は「ひとごとじゃなかった」。原水禁運動の拠点、杉並区立公民館に熱心に通って取材した。日に日に積み上がる署名簿。地元の主婦らは打ち合わせや署名の集計でいつも忙しそうだった。「バタバタしていて取材するのも大変。でも高揚感に満ちていた」
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この署名運動をきっかけに、被爆10年となる55年8月、原水爆禁止世界大会が広島市公会堂を主会場に初めて開催。2500人以上が集まり、14カ国代表も参加。署名は1年余りで3千万人分にも上った。
「私は15歳で原爆を受け、母と弟を亡くしました。それ以来10年間という長い苦しい時代を、皆さんに分かっていただくことが…」。壇上の長崎原爆乙女の会創設メンバー、山口みさ子のあいさつが涙声になると、会場にすすり泣きが広がった。久保山の妻すずも登壇した。「平和を守るため、立場や考え方の違いをいうのではなく、原子戦争反対、この一つで手を取り合いましょう」。拍手が響き渡った。
吉田は労働組合機関誌とつくる共同取材班の一員だった。「大勢の人の前で被爆者が話すのは初めてだったのではないか。語る方も聞く方も緊張した」
1回限りの予定だった広島の大会。だが、もう一つの被爆地、長崎での第2回開催を求める声は次第に高まっていく。(敬称略)