原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第4部「熱」 4

今も平和への願いを歌声に込める田中さん=長崎市勝山町、市立桜町小

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原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第4部「熱」 4 うたごえ 精神的渇望 駆り立てる

2015/03/31 掲載

原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第4部「熱」 4

今も平和への願いを歌声に込める田中さん=長崎市勝山町、市立桜町小

うたごえ 精神的渇望 駆り立てる

1953(昭和28)年2月、「平和の蔭(かげ)に」という名の曲が生まれた。物悲しさの中にどこか希望を感じさせるメロディー。「原爆乙女」のために作られた。同月9日付の長崎日日新聞は「原爆のため傷ついた薄幸の原爆娘らが、忘れがたいケロイドの苦悩から雄々しく再起していく清らかな人間像を歌った」と紹介している。

作曲を手掛けたのは、長崎市議会事務局長だった木野普見雄(ふみお)(本名文男、70年62歳で死去)。山里小の「あの子」、城山小の「子らのみ魂よ」など原爆にまつわる曲を数多く遺(のこ)した。自宅があった城山町1丁目(現・城栄町、爆心地から500メートル)は焦土と化し、妻子を失った。全てを奪われ、胸をかきむしる怒り、悲しみ、絶望感…。そうした感情が作曲へと向かわせた。

「木野さんは原爆に対し強い憤りを持っていた」。市役所で木野の同僚だった田中實(85)=エミネント葉山町=は、そう振り返る。田中は54年3月に結成された「長崎うたごえの会」(現在の長崎センター合唱団)の事務局長を務め、演奏会でも木野の曲をよく歌った。

「火ぶくれの屍体(したい)は 腐臭を放ち ドロドロと真夏の太陽に溶解をはじめた」。木野作曲の「腐臭の原」の一節。「まさに原爆の実態だ」と木野は話したという。田中は「生々しい旋律。当時の状況が思い浮かぶようだった。歌の力は大きかった」と語る。

戦中の精神的渇望は戦後、若者らを音楽や演劇、文学など文化活動に駆り立てた。田中もその一人だった。50年に入庁し市役所の合唱団に参加。占領下の貧しさの中、歌うことだけが生きがいだった。

東京では48年に、共産党系の青年組織の音楽部門として中央合唱団が結成。労働運動などの盛り上がりとともに社会運動「うたごえ運動」が巻き起こった。全国の職場や地域単位で次々に会が発足し、長崎でも田中らが立ち上げた。

田中は同僚の増田テル子(85)を介し、長崎原爆乙女の会とも交流を持つようになり、集まりで歌声を披露した。たまり場だった渡辺千恵子の自宅には、全日本学生自治会総連合(全学連)の男子大学生らも出入りしていた。

「うたごえ運動」はその後、原水爆禁止運動と結び付き、大きなうねりとなっていく。きっかけとなったのが第五福竜丸事件だった。