若者たち 日陰の中 わずかな青春
「一瞬にして失った青春が、よみがえってこようとする予感」-。渡辺千恵子(1993年64歳で死去)は、長崎原爆乙女の会の増田テル子(85)が初めて訪ねてきたときの心境を、こうつづっている。
渡辺は16歳のとき、学徒動員先の三菱電機製作所(爆心地から約2・5キロ)で被爆。鉄骨の下敷きとなり脊椎を折って下半身不随に。以来10年近く家の外に出ることなく過ごしていた。
54(昭和29)年の新聞記事をきっかけに、26歳の渡辺は人々の見舞いを受けるようになっていた。だが、同世代の女性の訪問は増田らが初めてだった。
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ケロイドや傷を抱える乙女の会のメンバーは渡辺宅に集まっては胸の内を打ち明け合った。結婚に就職。付きまとう不安のもとが原爆にあるのは明らかだった。55年7月、会はガリ版刷りの機関紙発行を開始。原水爆禁止に声を上げ始めた。
集まる”乙女”は少しずつ増えた。中学を卒業したばかりの谷恵美子(75)=長崎市葉山1丁目=もその一人。原爆で白血病を患った父を看病する谷にとって、楽しいひとときだった。「恋の話をしたり編み物したり、女の子らしい集まり。でも遠慮のない雰囲気があった」と目を細める。
編み物は会の主要な活動だった。原水爆禁止日本協議会から資金を借りて買った編み物機械で、渡辺宅は週2回、編み物教室に。完成品を売って活動資金にした。孤独だった部屋には笑い声と歌声が生まれた。
同じ頃、ケロイドの治療を受けていた20代の山口仙二(2013年82歳で死去)が呼び掛け、「長崎原爆青年の会」を発足。55年10月に渡辺宅であったささやかな結成式を長崎日日新聞も伝えた。長崎民友新聞(59年に長崎日日新聞と合併)などの記者だった杉森猛夫(86)=熊本市=は「山口氏のケロイドが訴える力は強かった」と振り返る。「マスコミは使命感というより彼の周りで騒いでいた感じ。だが原爆への関心や批判がこの時期、高まり始めたのは確かだった」
56年6月に二つの会は合併し「長崎原爆青年乙女の会」が誕生。谷は同年夏、同会で茂木へ海水浴に出掛けた日を覚えている。「ケロイドに悩む人は海水浴なんてできなかった。でもここではみな同じ。気兼ねせず、思いっきり遊んだ」
傷つき、”日陰”を生きてきた若い被爆者たちは、痛みを分かち合う仲間とのつかの間の青春に浸った。
(敬称略)