原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第4部「熱」 2

被爆による肘の傷を見せ、女性として苦悩した日々を語る増田さん=五島市奈留町

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原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第4部「熱」 2 乙女の会 心身に傷 何をすれば 「さらされている」抵抗感

2015/03/29 掲載

原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第4部「熱」 2

被爆による肘の傷を見せ、女性として苦悩した日々を語る増田さん=五島市奈留町

乙女の会 心身に傷 何をすれば 「さらされている」抵抗感

原爆投下から8年後の1953(昭和28)年、長崎市役所。市職員で水道料金の計算業務に従事する当時23歳の増田(旧姓・堺屋)テル子(85)=五島市奈留町=は、一つの思いをずっとぬぐえずにいた。

「原爆さえなければ…」

あの日までは、友達から美人を意味する「小町」と呼ばれていた。県立女学校2年生だった。爆心地から1・2キロ、学徒動員先の三菱兵器茂里町工場。

「猛烈な風で飛ばされ、皮膚がピリピリピリと裂けた」。体に無数のガラス片が突き刺さり、鼻を裂傷、大量出血した。左肘は肉がそげ、骨が見えた。

けがの治療は1年ほどで終わったが、脱毛と倦怠(けんたい)感に襲われた。容姿を気にして家にこもりがちになり、就職後も外出は極力避けていた。そんなある日、職場で長崎キリスト教青年会(長崎YMCA)の男性の訪問を受けた。

「乙女の会の会長になってほしい」。原爆でけがを負った女性による組織設立の依頼だった。

52年4月のサンフランシスコ講和条約発効で、占領下の日本は独立し主権を回復した。この頃から長崎日日新聞(現在の長崎新聞の前身)は、一般被爆者の実情に少しずつ目を向けていく。ケロイドを負った広島、長崎の一部の若い女性が「原爆娘」として紙面で紹介され、やがて治療、救済の動きは連日のように報じられた。

「被害がさらされている」。増田は一連の報道に抵抗感があった。だが、原爆娘への「同情」をきっかけに、被爆者への社会的認識は広がっていく。

乙女の会会長の話をいったんは断った増田だったが、しつこく頼まれ、しぶしぶ了解した。「長崎原爆乙女の会」は53年6月、結成。長崎日日新聞は発足式を「原爆の毒爪から起き上り強く生き抜こうと誓いあつた」と伝えた。

活動は細々としたものだった。体にケロイドや傷がある10~20代の女性数人が月1回ほど集まったが、何をすればいいのかも分からない。増田も真剣ではなかった。「原爆のことを語るわけでもなく…。ただ、おしゃべりは楽しかった」

1年が過ぎたころ、ある記者から「渡辺千恵子さんを中心に活動したほうがいいのでは」と促された。初めて聞く名前だった。どんな女性なのか。どんな生活をしているのか。なんとなく気になった。数日後、油屋町の渡辺宅を訪問。げた屋の横の路地を進み、玄関の引き戸をそっと開けた。

青白くてきゃしゃな女性が、いすに座って編み物をしている姿が見えた。

(文中敬称略)

占領期が終わっても放置されていた被爆者。その中で、心身に傷を抱えた女性たちが静かに動き始める。その波紋は、当時の世界情勢やさまざまな社会事象のはざまで徐々に膨れ、熱を帯び、一つの方向へと波立っていく。年間企画第4部は、日本の主権回復後の52~56年の被爆地長崎と報道をとらえた。