原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第4部「熱」 1

長崎の被爆者運動の黎明(れいめい)期から活動した若き日の渡辺千恵子さん(撮影日不明)

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原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第4部「熱」 1 主権回復 報道の自由へ 米国批判や悲惨な被爆体験も

2015/03/29 掲載

原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第4部「熱」 1

長崎の被爆者運動の黎明(れいめい)期から活動した若き日の渡辺千恵子さん(撮影日不明)

主権回復 報道の自由へ 米国批判や悲惨な被爆体験も

被爆70年・年間企画「原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道」の第4部「熱」は、原爆投下から7~11年後、1952~56年を見つめる。

戦前戦中から占領期にかけて長崎新聞や戦後分離した長崎日日新聞は、国家や連合国軍総司令部(GHQ)の発する情報、当局の方針を国民に伝える役割を確かに担い、戦争被害、原爆被害には目をつぶっていた側面があった。だが、52年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効で、日本は完全な独立国として主権を回復。ようやく報道の自由を得た。

長崎日日新聞の紙面をめくると、52年はヘルシンキ五輪が開催。陸上でチェコのザトペックが三つの金メダルを獲得するなど活躍し、国内では総選挙、汚職、殺人、窃盗事件などが大きく報じられた。また、占領期にGHQの指示で共産党員らが公職や企業から追放されたレッドパージ(赤狩り)は、引き続き社会に濃い影を落としていた。

被爆者は、原爆のケロイドや白血病、その他の症状に苦しみながら一般戦災者として生きていた。やがて、原爆でひどいケロイドを負った女性たちを「原爆娘」としてマスコミが注目。結果的に、被爆者の苦悩を市民が知る入り口となる。同時に、相次ぐ水爆実験による社会不安の高まり(死の灰、食品汚染の懸念など)が原水禁運動を押し上げた。占領期に伝えられていなかった原爆被害の実態も徐々に明らかにされる中で、市民、被爆者だけでなく記者の意識や認識、さらに新聞自体も大きな変化を遂げていく。当時の長崎日日新聞の紙面を概観した。

=文中敬称略=

◎「原爆娘」クローズアップ/救済運動の機運加速

長崎日日新聞は1952年6月13日付、「喜びと感激の原爆娘 治療費を婦人の力で」の見出しで、ケロイド治療のため上京した広島の9人の若い女性の話題を報じた。歌手の越路吹雪が支援を約束する談話も。「軽い人で二週間、重い人で三カ月の入院生活で治る」と、実態とは違う明るい見通しと、うら若き女性が原爆の痛手にめげず、けなげに生きようとするストーリーを紹介している。

一方で、爆心地から5キロで被爆した戸町中の29歳の女性教員が急性白血病で死亡し、米国が設置した原爆傷害調査委員会(ABCC)が解剖するという記事が出ている。原爆から7年。人体影響は未解明のまま、被爆者は一人、また一人と亡くなっていた。

米国への怒りも紙面で表出。8月に広島、長崎の両原爆都市建設特別委員会が茂木であり、ABCCに関し、広島市議の任都栗一興は「アメリカはケロイド症状に悩む原子病患者をネズミかモルモットぐらいにしか考えていない。単なる研究資料として取扱っているが治療機関を設置すべきでアメリカはその責任がある」と発言。「ケロイド患者 動物扱い」の大見出しで報じた。

占領期には見られなかった記事としては、8月9日付「原爆生き地獄繪を語る 生き殘り體驗者座談会」がある。7年前の被爆体験を農業者や婦人会員、大工ら一般庶民18人が語り合い、まだ生々しい記憶を焦点化したこれまでにない内容。このうち会社員の片山辰吉は「家族五人が血だるまとなって防空壕に横たわっていた。その翌日から全員がどす黒い血を吐き、頭髪がゾロゾロ抜け、二週間以内にうめき声を最後に次々死んで行った」「母や兄弟が青白いほのおをあげてバリバリ焼かれてゆく惨状を目撃していた妹(当時女学生)は”兄さん、自分もあのように焼かれるのか?”と尋ね”自分は焼かないで下さい”と泣いて哀願した。それから二日後、妹のみは土葬してやった」などと語っている。

広島が先行する「原爆娘」の治療の動きが年末、再びクローズアップ。やがて占領期の被爆医師永井隆関連以来の集中的な報道となる。ケロイドを抱えた長崎の女性数人を東京で治療させようとする長崎日日新聞の人生案内担当、真杉静枝の奔走を12月16日付で報じ、同18日付「原爆娘を救え」では、顔や手、足などのケロイドの写真5枚を掲載。原爆被害の実情を紙面化し、治療に向けて「原爆都市の一大市民運動がぼっ興する機運をかもし出している」と報じた。

この流れは加速し、20日付社説「原爆乙女を救え」では「長崎市には、到るところにケロイド症状を見うける」とし、放置する行政を批判。救済へ強力な組織構築を提起した。

反響は大きく、市議会の原爆議員団に続き、市婦人会は「一般原爆傷害者」を含む救済運動を確認。婦人会の小林ヒロは後に「あの上京原爆乙女を動機として婦人会員の間に母としての愛情がゆり動かされたからです」(53年4月29日付)と語った。53年1月3日付社説「原爆被災者救援運動を促進せよ」では救済範囲の拡大を論じ、同26日付社説は「原爆被災者を救う道」と題し実態調査の促進を主張した。

原爆娘の歌やレコードも出て、ある種のブーム的な色合いも。一方で「被爆後八年無言の警告 元気な少年ポックリ死亡 相つぐ犠牲、既に六名」(53年2月20日付)など、命を落としていく被爆者の存在も取り上げられはじめる。

実態を丁寧にとらえたのは、城山小「原爆学級」設置の発端となった被爆児童、橋本長利=51年11月、9歳のとき白血病で死去=について書いた同校教諭、道口まちの手記の連載(53年3月)。愛情と悲しみを込めて症状の進行を克明に描いた。

「廣島長崎原爆乙女交歡会」は、53年4月27日から3日間、長崎市であり、広島原爆娘の佐古美知子は「最初この顔を鏡でみたときは気が遠くなりそうでした。それから一歩も外に出ないような生活を続けていました」と語った。座談会では「眉をはやしてもらえたら」「寝ても目が閉じられなかった」「普通の方のように恋愛が出来るとも、しようとも思っていません」などの声があった。

原爆娘の一連の動きは、長崎原爆乙女の会の発足に結び付き、車いすの被爆者、渡辺千恵子らの同会への参加で本格的な被爆者運動が徐々に形作られていく。

53年は、社会も安定し始め、長崎くんちが盛大になる。エリザベス女王戴冠式が注目され、結核の多い時代でもあった。

◎再軍備 改憲論盛り上がる

日本の独立で、再軍備論、改憲論が盛り上がった時代。1952年7月、旧陸軍軍人で体験記「潜行三千里」が話題だった辻政信を招いた演説会は三菱会館などで開き、大盛況。長崎日日新聞会長の桑原用二郎が壇上で辻を紹介し、米ソ二大陣営に対抗する「自衛中立論」を大きく取り上げた。

53年の成人の日の座談会では、新成人から再軍備に絶対反対の声も。当時の田中円三郎県教育長は「兵隊にいくのがいやとか、死ぬのがいやだから反対だというのはなお考える余地がある」と疑問視。一方、伊藤正雄長崎市教育長は「保安隊分列行進をみるとなんだか胸がわいてくる、これは昔の軍隊への郷愁だ」と本音を語り、若者世代との感覚の違いを浮き彫りにした。

5月4日付1面の「長日春秋」欄では「一たび憲法を改正しても良いということになれば、民主主義と永久平和の原則が無視され、その眼目である戦争放棄の規定の改正が進められるであろう」とする法政大法学部長の中村哲の主張を掲載した。

◎水爆への恐怖 核の平和利用への期待 混在

1952年6月、紙面では原子力兵器の開発競争が激化する状況を紹介。同兵器の数を、米国1500に対しソ連100と推定。一方、原子力の平和利用には、並々ならぬ期待感が漂う。8月1日付で、長崎市西山地区の被爆直後に採取していた泥砂土からプルトニウムが抽出されたというニュースも、「日本の原子力科学に画期的成功」などの見出しで、「日本もいよいよ原子力の学問的研究に本格的に入ることが可能となった」などと歓迎。8月9日付の社説では、米ソの原爆生産を嘆きながらも「原子の威力は世界平和建設と人類の幸福増進のために活用されねばならぬ」としている。

11月18日付、1面トップで「米・水爆實驗に成功」。米国が太平洋マーシャル諸島エニウェトク環礁で、原爆より強力な史上初の水爆実験を同月1日に行ったことを報じた。故永井隆の長女茅乃が「考えただけでもゾッとします」、市議の杉本亀吉は「(報じた)夕刊は生き残りの家族全員で焼き捨てた」とコメント。ビキニ、エニウェトク両環礁での米国の核実験は58年までの間に計67回に及んだ。ソ連初の水爆実験は53年8月。 原爆、被爆者に関する記事が減少する中、54年3月17日付夕刊で次の見出しの記事が出る。

「ビキニの水爆で原子病? 日本漁夫23名が異状 出漁中にキノコ雲を望見」

米国のビキニ水爆実験で、第五福竜丸の被ばくが大騒ぎとなり、その後、「原爆マグロ」「死の灰」「放射能雨」などの言葉が紙面に躍る。もともとあった被爆者への差別意識(放射能はうつる、子孫に影響するなど)も相まって、被ばくの恐怖が社会を覆う。記事の中心は食生活、市民生活への懸念だった。

3月25日付では「日本は英国と共に原子力の平和的利用に好適」とする米原子力委の報告を報道、4月4日付の少年少女コーナーでは「日本でも原子炉の研究 平和産業のために 原子力を少しずつ使う」とする特集を組んだ。

水爆実験の恐怖と原子力の平和利用への期待が混ざり合う中、6月3日付、原爆被害を捉え直す記事が出る。「私たちも何とかして下さい 長崎原爆被災者から悲痛な訴え 要治療者約七百名を突破 長崎市強力な救済運動始む」の見出しで掲載。国民が今恐怖する核被害の当事者が被爆者であり、救済されるべき人々であるという見方が発信される。

米ソの水爆実験、英の核爆発実験などが続き、原水爆禁止署名運動が拡大する。だが56年は原子力の平和利用の動きも加速。1月に原子力委員会(委員長・正力国務相)が発足。6日付で「五年内に原子力發電所」の政府方針が報じられる。

◎平和祈念像の建設地が決着

建設地が浦上か風頭かで大きな議論となった平和祈念像。紙面では1953年5月9日付で「平和祈念像の曲」発表会があった勝山小の様子を伝え、7月9日付で長崎市議会が建設地を浦上に決定したと報じた。

54年に入ると、東京で制作中の北村西望による石こう像の完成、鋳造開始、頭部と手を送るといった知らせなどが掲載され、台座の構築完成(55年3月7日付)、組み立て開始(同30日付)と進む。55年8月8日に盛大に除幕。同9日の長崎原爆10周年の平和祈念式典は祈念像前で執り行われた。

◎被爆10年 初の連載

原爆関連で初めての本格的な連載企画は1955年8月1~8日付の「原爆十年」(8回)。城山小の原爆学級の現状や無縁仏への対応、永井隆、浦上天主堂などの被爆遺構、原子病研究や病に苦しむ被爆者の生活、原爆の子対談、被爆者対談などで構成した。