負け戦は秘密にされ 検証し「良い方向に」
海軍大尉となった原口静彦は1945(昭和20)年5月、愛知県の航空隊基地に赴任。第4中隊長として防空戦闘に備えていたが、8月15日、敗戦。前日に重大発表があると聞いていた。冷静に受け止めながら、戦艦武蔵で訓練していたころの出来事を思い出した。
42年6月、日本軍はミッドウェー海戦で大敗したが、それを知らされないまま広島県呉で主な将校100人ほどがひそかに集められた。上官は「国力で上回る米軍は盛んに空母をつくり、日本の実業界にも厭戦(えんせん)の空気が広がっている。この戦いは年内で終える」と告げた。だが戦争は、ずるずると続いた。ある日、海軍病院で隔離された負傷兵に会った。「(空母)赤城が(ミッドウェー海戦で)やられた」。そう打ち明けられ、初めて同海戦の結末を知った。
「負け戦は、国民にも、同じ海軍内にも、ひた隠しにされていた」
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45年9月に退役し、家族が暮らす現南島原市へ。地元開業医の「原口家」に婿養子に入り46年、長崎医科大に入学。卒業後も助手などで在籍した。多くの仲間を失いながら生き残った原口にとり、人のために尽くすことは自然な流れだった。61年、耳鼻咽喉科医院開業。76年から3期12年、旧南高北有馬町長を務めた。
「8人だけになってしまった」。昨年末、原口は過去の年賀状を手につぶやいた。戦後、海軍兵学校の同期432人のうち、多いときで70~80人とやりとりしていた賀状は、もう8人からしか届かない。同窓会は5年ほど前に解散した。
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「軍人は国、上層部の命令に従うのみ。毎日が命の取り合い。戦争が良いとか悪いとか考えたこともなかった」。当時を振り返る原口は「なぜ戦争になり、早く終結できなかったのか。十分に検証すべきだ」と話し、その原因を挙げた。外交努力の限界、軍部の暴走による文民統制(シビリアンコントロール)の失敗。大本営は戦果を過大発表し、報道機関があおった。「天皇陛下にも本当のことが伝わっていなかったのではないか」。重大なことが秘密にされていた。
現在、国際情勢は複雑化し、日本の行方を危ぶむ声もある。「元に戻っているんじゃないか」と原口。一方、戦争体験を継承しようという動きも広がる。「意見が相手と違っても受け入れ、平和な時代をつくるべき。若者の間で機運は高まっていると思う。良い方向に行くと少し希望を持っていますよ」。原口は穏やかに笑った。(文中敬称略)
=おわり=