同期は特攻 体当たり 航空隊、運命は紙一重
「きっぷがいい男だった」。原口静彦が懐かしむのは、1943(昭和18)年1月に戦艦「武蔵」を離れ、飛行学生の教育訓練を担う霞ケ浦海軍航空隊(茨城県)に赴任した際、同期生となった関行男だ。
関は海軍兵学校も同期で、後にフィリピン・レイテ沖海戦で初の神風特別攻撃隊の一隊「敷島隊」の隊長となった。文才があり、スポーツマン。44年10月、通信社の特派員に「愛するKA(海軍の隠語で妻)のために行くんだ」という言葉を残し、出撃した。
最後の特攻隊長となった中津留達雄も同航空隊の同期。赴任前、乗船していた駆逐艦「暁」が南太平洋・ガダルカナル島の戦いで沈んだ際、多くの乗員を助け、特別表彰を受けた。「中津留が受け取ったボーナス300円は全て隊の同期と飲み代に使ってね。戦後、娘さんに謝りましたよ」。原口は目を細める。
だが、その中津留は45年8月15日午後、敗戦を知らされないまま大分の飛行場を飛び立ち、米軍が占領する沖縄本島手前の岩礁に体当たりしたとされる。「国際法に詳しかった。機内で敗戦を悟り、終戦したのに米軍を襲撃すれば後に日本が不利になると思い、そう(自爆)したんだろう」。
かけがえのない戦友たち。「配属先が違えば私も特攻隊になっていたかも。運命は紙一重だった」
原口は44年1月、広島県呉の海軍航空隊に配属。分隊長となった。学徒出陣で学生出身の将校も多くいた。原口は霞ケ浦などで500~600時間の飛行訓練を経験していたが、学生出身の将校らの多くは50時間ほど。「こんな状態で実戦に臨めば撃墜される。相当厳しく育てた」。燃料を特別に手配し、夜間飛行もして、より多く訓練させた。
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45年3月19日朝、米軍の艦載機約350機が呉を空襲。軍港背後の山の方向から滑るように降下し、波状攻撃を仕掛ける無数の敵機。艦艇の対空射撃や航空隊の迎撃で必死に応戦した。原口も水上戦闘機に飛び乗り、慌てて出撃。記録によれば、1機を撃墜している。
この9日前が東京大空襲。呉も同年7月にかけ複数回の空襲を受け、軍港としての機能を失っていった。
「米軍は沖縄戦(45年3月)を前に、日本の軍港や航空基地などを徹底的に空襲してきた。だが日本にはもう、反撃する力が残っていなかった」