戦後70年 ながさき 戦争の残照 旧日本兵の証言
 元海軍将校 原口静彦さん(93)=南島原市 3

1942(昭和17)年11月、海軍少尉で戦艦武蔵の砲術士だったころの原口さん

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戦後70年 ながさき 戦争の残照 旧日本兵の証言 元海軍将校 原口静彦さん(93)=南島原市 3 戦艦武蔵の砲術士に “発見”報道 感慨深く

2015/03/19 掲載

戦後70年 ながさき 戦争の残照 旧日本兵の証言
 元海軍将校 原口静彦さん(93)=南島原市 3

1942(昭和17)年11月、海軍少尉で戦艦武蔵の砲術士だったころの原口さん

戦艦武蔵の砲術士に “発見”報道 感慨深く

真珠湾攻撃で勝利した日本海軍は、1942(昭和17)年1月からニューギニア島沖・ビスマルク諸島攻略作戦など南方の戦いでも連勝。巡洋艦「筑摩」の航海士、20歳の原口静彦は5月に入り、艤装(ぎそう)中の世界最大級の大和型戦艦「武蔵」に配属された。

原口が武蔵に移った後、筑摩は同月下旬にミッドウェー海戦へ出港。この攻防では「赤城」など空母4隻や多くの攻撃機を失った。

一方、三菱重工長崎造船所で建造された武蔵は同月下旬、広島県呉に到着。艦体の整備を急いでいた。着任した原口が「空前絶後の大きさ」に圧倒されながら艦上を見回していると、年配将校からこっぴどく怒られた。機密を守るため港の中でも目立たない沖合に係留し、たとえ軍人でも見物は厳しく禁止されていた。

ある日、士気高揚のためと称し、上官から「生きのいいところを下士官兵に見せるように」とハッパを掛けられ、高さ11メートル以上の武蔵の船首から高飛び込みを命じられたことがあった。艦上の400メートルリレーや艦体1周約600メートルの競泳をした思い出も。艦橋に上る13階までのエレベーターを慣れない人が壊さないよう「エレベーターボーイ」をさせられたり、乗員が砲口に潜り込み上官に怒られたり。武蔵が死地に向かう前の、少し牧歌的とも言えるひとときだった。

起工から4年半、武蔵は8月に完成した。原口は砲術士に任命され、計算機で主砲の角度を決めるなどの操作に携わった。全長263メートル、主砲の砲身約20メートル、砲口直径46センチ、射程最大約42キロ。「破壊力は想像を超えるものだったと思う。ただ、戦術的に巨大戦艦から航空機の時代に移っていたのに日本は”大艦巨砲主義”から抜け出せずにいた」

完成後は瀬戸内海で猛訓練に明け暮れた。実射訓練もした原口だったが、着任から約8カ月たった43年1月に退艦。飛行学生として茨城県霞ケ浦の海軍航空隊に移った。

44年10月24日、武蔵はフィリピン・レイテ湾に向けシブヤン海を航行中、米軍機の攻撃を受け、沈没。乗員約2400人のうち約千人が死亡。生存者もその後、多くが亡くなった。

今月、武蔵とみられる深海の船体の一部画像が公開され、原口は当時の雄姿を思い起こした。72年ぶりの”再会”。だが、無残に壊れた全体像は確認できなかった。「私にとっては、むしろ良かったかもしれない」。原口はそうつぶやいた。

(文中敬称略)