亡父を思い海軍入隊 涙で見送る兵学校長
原口(旧姓・竹馬(ちくば))静彦は1921(大正10)年11月、広島県尾道の竹馬家に生まれた。10人きょうだいの7番目。34年に愛媛県立松山中に入学し3年後、香川県立高松中に転校。東京大教養学部の前身、第一高等学校(一高)を目指し、将来は造船工学か航空工学の道に進むつもりだった。
両親は現在の南島原市出身。父静茂(しずも)は尾道のドックに入る船の操縦担当、連絡船長などを渡り歩いた。貨客船長として海外を回った経験もあり、いつも活力がみなぎっていて原口のあこがれの存在だった。だが、軍事目的の民間船の船長を務めていた38年2月、朝鮮半島に鉱石を運ぶ途中、東シナ海で沈没し亡くなった。これを機に母の操(みさお)やきょうだいは、実家がある島原半島の北有馬に戻った。
原口は家族の経済的負担を避けるため、一高進学を断念。父が海の仕事と関係が深かったことなどから進路を海軍と決め同年12月、難関を突破し広島県江田島の海軍兵学校に第70期生として入学した。同期は464人。英語や数学を学び、きゃしゃな体は柔道や剣道などで鍛えられた。宮島で毎年ある分隊対抗の山登り競争では、病み上がりの原口に先輩3人が付き添ってくれた。「戦争は狭い船内で生死を共にする。先輩も後輩も相手を思いやる伝統があり、団結していた」
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日米開戦を予見させることはいくつもあった。39年4月からの入学が、前年12月に繰り上げられ、授業も詰め込み。本来4年の課程は3年足らずで終え、41年11月に卒業を迎えた。式には多忙との理由で例年の天皇陛下の姿はなく、高松宮殿下が出席した。
式後に父兄を交え開かれた昼食会。軍楽隊が奏で、和やかな雰囲気で進んだ。「おめでとう」。母はそう言ってくれた。
突然、校長が悲壮な表情で語り始めた。「生きて再び父兄にまみえざる候補生あらん。名残惜しまれたい」。これが家族と最後の面会になるかもしれない-。会場は一瞬固まった。原口はそのとき、情勢が切迫しているのだと思った。
その日、同期生と船に乗り、配属先の巡洋艦「筑摩」が停泊する大分県へ出港した。校長は見送りのボート上でぼろぼろと涙をこぼし、ちぎれるくらい帽子を振ってくれた。原口は胸が熱くなったが、校長の涙の意味を本当に理解するのはもう少し先だった。
41年末、真珠湾攻撃で勝利を収めた筑摩など機動部隊は、日本に戻った。