真珠湾攻撃 高揚感胸に
太平洋戦争でフィリピン中部シブヤン海に沈んだ旧日本海軍の戦艦武蔵。その船体とみられる残骸が水深約千メートル付近で見つかり、今月、世界的なニュースとなった。
菊の紋章の台座部分、巨大ないかり、特徴的な対空砲-。13日、インターネット上で生中継された深海の映像を、かつて砲術士として武蔵に乗船した原口(はらぐち)(旧姓・竹馬)静彦(しずひこ)(93)=南島原市北有馬町=は、パソコンで食い入るように見詰めた。
「この船には多くの魂が込められている。海軍にとって海は墓場。静かに眠らせてあげたい」-。海に散った若き兵士たちをしのぶ原口。その脳裏には、70年以上前の日々が今も強く焼きついている。
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1941(昭和16)年12月8日未明(現地時間7日朝)、ハワイの北方約400キロ。大海原を日本海軍連合艦隊の主力空母、旗艦「赤城」を中心とする機動部隊23隻が進む。やや多い雲が朝日であかね色に染まる空へ、6隻の空母から攻撃機が続々と飛び立つ。真珠湾攻撃が始まった。
機動部隊の巡洋艦「筑摩」の航海士で当時20歳、海軍少尉候補生だった原口は、高揚感を胸に、艦橋からその情景を見つめていた。
原口は、攻撃機から無線で赤城にもたらされる戦況報告を傍受し、筑摩の艦長に伝える役目も担っていた。第1次攻撃隊の発進から約2時間後、情報が次々に入ってきた。
「赤城飛行機より『全軍突撃せよ』」「格納庫3、地上飛行機50炎上せり」「奇襲成功せり」「我、敵主力を爆撃す。効果甚大。地点パールハーバー」-。
「二度とこのようなことはない」。原口は記録を個人的に残すため、艦長への報告とは別に、有り合わせのメモ用紙に状況を走り書きした。
原口は、1941年12月の真珠湾攻撃の前月に、広島県江田島の海軍兵学校を卒業したばかりだった。卒業翌日には、大分県佐伯港に停泊中の巡洋艦「筑摩」に同期生約10人と配属された。乗員の士気は既に高まっていた。
11月22日には択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾に他の艦船と共に集結。上官は「米国との交渉がうまくいかなかったらハワイを攻撃する」と述べた。準備のため、艦内の燃えやすいものは全て焼いた。出港後は米軍側に悟られぬよう、この時期、船の航行が少ない北太平洋を進んだ。途中、ソ連の商船と遭遇する可能性が生じ緊張が走ったが、幸い擦れ違わずに済んだ。
「えらいときに卒業したな」。そんな焦りもあったが「日本の一大事に間に合って良かった。自分の任務を果たして死ぬなら本望」とも思った。他の同期生も同じだった。生き延びたいという気持ちなど、微塵(みじん)もなかった。
決戦前日の12月7日、連合艦隊司令長官、山本五十六から機動部隊に「粉骨砕身各員その任を全うせよ」と電報が届いた。原口はその日の日記にこう記した。「引き絞りたる矢を放つべき時は来れり。その第一矢は、わが機動部隊から。壮なるかな。快なるかな」
日本海軍は当初から米国との国力差を認識。短期決戦に持ち込む上で、米主力空母の撃沈は必須だった。
精鋭の航空兵力で奇襲した真珠湾攻撃は、米太平洋艦隊の戦艦8隻を沈めたり、大破させたりするなど大きな“戦果”を挙げた。しかし、攻撃目標だった米空母「エンタープライズ」「レキシントン」などがハワイを離れていたことから、後に米軍が持ちこたえる原動力となり、日本海軍の戦略が頓挫する一因となった。
「真珠湾攻撃を終えて、少なくとも筑摩では万歳をする雰囲気ではなかった」
(文中敬称略)
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日本の軍人・軍属と民間人を合わせて310万人が亡くなり、各国にも多大な犠牲を及ぼした太平洋戦争。その最前線に立った日本海軍の元将校が、終戦から約70年となる今、静かに語り始めた。