巡洋艦矢矧 海に眠る 「悲劇をくりかえさざるを希い-」
速度が落ちた「矢矧」を魚雷、爆弾、機銃掃射が容赦なく襲った。振動が臓腑(ぞうふ)をえぐる。鮮血が飛び散る艦上を伝令に走り回った。息絶えた乗員、虫の息の負傷者が折り重なっていた。約600メートル先で魚雷投下の水柱が目に入った。魚雷を落とした雷撃機が艦橋をかすめて反転。操縦士が薄笑いを浮かべていた。これが「矢矧」の致命傷となる。
午後2時5分、「矢矧」沈没。重油まみれの海で角材にしがみついた。「四面海なる帝国を-」。海に投げ出された乗員たちが軍歌の合唱を始めたが、やがて力尽き、途切れがちになった。横編隊を組んだ戦闘機が低空飛来し、無抵抗で浮いている乗員たちに無慈悲に弾雨を降らせた。弾道にいた戦友たちは、声もなく沈んでいった。「これが戦争かと、運命を託した」
海水が体温を奪い、体力も限界に来ていた。「死」を意識したその時、水平線に艦影が見えた。特攻作戦の中止命令を受け、救助に引き返してきた「冬月」など残存艦だった。暗くなると救助漏れも出てくる。自分で近づくしかなかった。「仲、泳ぐぞ」。励まし合っていた大分県出身の仲海道1等水兵に大声を掛け、最後の力を振り絞って手足を動かした。意識もうろうで救助されたのは、沈没から約6時間後だった。
「矢矧」の戦死者は乗員の約半数に相当する446人(防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書」)とも、487人(矢矧会)ともいわれている。最後の最後で力尽きたのか、生還者の中に、そばにいたはずの仲はいなかった。「大和」など6隻を失ったこの戦いは、海軍の事実上の終焉(しゅうえん)となった。
仲間の分まで
本土決戦に備え、今の南島原市加津佐町に整備された岩戸砲台で終戦。脱力感だけが残った。復員したその年の暮れ、約2年半ぶりに古里の地を踏んだ。懐かしい風景が、変わらぬままあった。それだけが救いだった。母ケシが毎日、息子の無事を祈って神社に通い続けていたことを知った。
大戦で多くの「矢矧」乗員が命を落とし、全国に計3900人いた特年兵2期生も、1200人が花と散った。「生き残って申し訳ない」との自責から、戦争体験については家族にさえ、多くを語ってこなかった。そして、就職した県内の銀行でがむしゃらに働いた。「死んだ仲間の分まで生きて、敗戦から国を立て直そう」。そんな思いが、いつもどこかにあった。
今、有明海を望む高齢者住宅の一室で、妻タマ(86)と静かな日々を過ごす。「長崎や広島への原爆投下、東京大空襲のように、民間施設も無差別にやられた。ルールも何もない。人が人を殺す。それが戦争。戦争ほど悲惨で残酷なものはない」。穏やかだった口調に力がこもった。
佐世保市東山町の東山海軍墓地。山林らが中心になって、69年に建立した「矢矧」戦没者慰霊碑がある。遺族の高齢化に伴い、毎年4月7日に有志が営む慰霊祭への参列者は年々減り、生存者では山林1人になった。「再び戦争の悲劇をくりかえさざることを希い-」。慰霊碑には、「矢矧」と運命をともにした多くの戦闘員、そして生き残って苦難の戦後を歩んだ者たちの祈りが刻まれている。(文中敬称略)(島原支局・下釜智)
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今夏、太平洋戦争の終結から70年となる。戦争のむごさ、愚かさを実体験として伝える世代は高齢化し、その教訓を私たちが直接聞くことができる時代は終わろうとしている。戦後70年企画「戦争の残照 旧日本兵の証言」では、本県に関わるさまざまな戦争体験者の戦場などでの記憶をたどり、現代へのメッセージを考える。