二度の撃沈から生還「勝ち目ないことは分かっていた」
大海原に鳴り響く汽笛は、どこか悲しげだった。
2006年4月7日、九州の南方海洋。元海軍2等兵曹、山林正直(86)=島原市中堀町=は、白波を立てて進むチャーター船の甲板にいた。旧海軍の沖縄特攻作戦で散った将兵たちの海上慰霊祭だった。戦争末期の1945年のこの日、沖縄へ出撃した世界最大級の戦艦「大和」を含む10隻が米空母部隊の猛攻撃を受け、大和など6隻があえない最期を遂げた。艦隊全体で約4千人が戦死したともいわれている。山林は巡洋艦「矢矧(やはぎ)」の生き残りだ。撃沈から約6時間後、奇跡的に救助された。
遺族や戦友を乗せたチャーター船は、各艦の沈没場所へ、沈没時刻に合わせて航路をたどった。「あん時は、大変だったなあ」-。「矢矧」が沈んだ場所で海に花束を投げ、艦と運命をともにした仲間たちに語り掛けた。甲板に吹き込む海風が肌寒かった。
撃沈されたのは1度ではない。44年11月9日にも、乗艦していた護衛艦「長寿山丸」が沖縄県の那覇を出航後に魚雷攻撃を受け、約11時間、漂流した。「二度の生還」を果たした山林は「海軍特別年少兵」出身だ。正式には「海軍特別練習兵」だが、部内では「特年兵」と呼んだ。海軍が中堅幹部の養成を目的に創設した兵だ。採用資格は「14歳以上、16歳未満の者」と規定された。海軍特年会編「海軍特別年少兵」によると、教育中に終戦を迎えた4期生を含めて全国に約1万8千人。山林は実戦配属された2期生だった。
スパルタ教育
南高神代町(今の雲仙市国見町神代)で、貧しい小作農の家に生まれた。世の中には「非常時」の言葉が氾濫し、山林も小旗を振って出征兵士を見送る軍国時代の少年だった。
学業は優秀だった。神代国民学校は学年2番で卒業。進学した同校高等科で、特年兵の受験を勧められた。試験には将来の海軍士官を夢見て、各校から応募が殺到した。「あこがれの海軍に入って、軍艦に乗りたかった。地元の試験会場だった旧制島原中(今の島原高)には島原半島内から何百人と来ていた」。神代の高等科から、難関を突破したのは山林1人。母ケシは一人息子が軍人になるのを反対したが、時代にはあらがえなかった。
43年7月1日、水兵科特年兵として、今の陸上自衛隊相浦駐屯地に置かれていた佐世保第二海兵団に入団。2等水兵となった。九州、四国各地から集まった同期800人が各教班に分けられ、それぞれに担当下士官の教班長が付いた。特年兵は文武両道の秀才ぞろい。入団後、ある教班で、教班長が「学校を5位以内で卒業してきた者は手を挙げろ」と聞いたところ、全員が手を挙げた、とのエピソードがある。
海兵団では海軍伝統のスパルタ教育が待っていた。就寝はハンモック。早朝、スピーカーから鳴り響く起床ラッパと、当直下士官の号令で1日が始まる。ハンモックの両端はフックに引っ掛けており、これを外して大急ぎでたたんで袋に入れ、高い位置にある格納庫にしまうのが最初の日課であり、訓練だった。少しでもまごつくと班全員が罰直(制裁)を受けた。ビンタは序の口。「精神棒」で思いっきり尻をたたかれる。青あざが絶えなかった。学科に加え、午後からは小銃の装塡(そうてん)教練、実弾射撃、水泳訓練、短艇訓練、武技-。「なんだ、そのざまは。それでも帝国軍人か」。教班長の怒声が飛ばない日はなかった。
「夜、寝静まると、兵舎に並んだハンモックから忍び泣く声がよく聞こえた。『おっ母、おっ母』って」。しごきに耐えかね、脱走する特年兵もいた。
1個の消耗品
海兵団での基礎教育を終えると、兵種に応じた術科学校への入校を命じられ、専門教育を受けた。山林は横須賀海軍砲術学校で、目標物までの距離を測り出す測的班練習生になった。戦局は日に日に悪化していた。中堅幹部養成という当初の方針は転換され、特年兵たちは最低限の教育を受けると、戦況不利な前線へと、急ぎ投入されていった。1個の消耗品だった。
軍籍に入って以来、希望調査には「第一志望 巡洋艦」と書き続けた。「機動力に優れ、任務も多い巡洋艦は花形だった」。44年11月、「矢矧」乗り組みを命じられた時は天にも昇る思いだった。「長寿山丸」撃沈からわずか6日後。
「長寿山丸では乗員約100人のうち、助かったのは自分も含めて9人。そんな目に遭ったばかりだったのに、『やったあ』なんて…」と遠くを見詰める。
沖縄特攻艦隊
45年4月1日、米軍がついに沖縄上陸。これを受け、陸海軍共同の沖縄作戦が発動する。沖縄を決戦場と考えた海軍は最後の総力を傾けた沖縄特攻艦隊を編成した。戦艦「大和」、巡洋艦「矢矧」、駆逐艦「冬月」「涼月」「朝霜」「初霜」「霞」「磯風」「浜風」「雪風」の10隻。援護機は付かないことも伝えられた。「飛行機も操縦士も(神風)特攻で残っていなかった。海上作戦を実行する上で援護機が付かないというのは、もはや作戦ではない。勝ち目がないことは分かっていた」。出撃を翌日に控えた5日夕、爪と髪の毛を封筒に入れ、遺品として託した。古里が目に浮かんだ。「1隻でも、1機でも」。覚悟を決めた。
6日午後3時20分、山口県の三田尻沖を出撃。翌7日は朝から曇り空で視界不良だった。「対空戦闘には苦労するな…」。伝令員として艦橋にいた山林の耳に、幕僚のつぶやきが聞こえた。懸念は的中する。
雲の切れ間から米軍機の大編隊が現れた。「敵は100機以上」。甲板の見張り員が叫ぶ。「矢矧」は速度を上げながら全砲門を開いて応戦。だが、曇天と砲門の煙幕で視界はさらに狭くなり、主砲、高角砲とも機能しない。「魚雷近い」。左舷見張り員が緊迫の声を上げた。3本ぐらいの航跡を描いた魚雷のうち1本が、スクリュー付近に命中。水煙とともに火柱が上がり、山林は衝撃で吹き飛んだ。