聖者 脚色された自己に当惑
連合国軍総司令部(GHQ)による約2年間の検閲を終えた「長崎の鐘」は、旧日本軍のフィリピン・マニラでの虐殺に関する証言を記録した「マニラの悲劇」を付録にすることを条件に1949年1月出版された。「長崎の鐘」は映画化、舞台化され、歌謡曲にもなるなど、同年のベストセラーとなった。
永井のメディア露出は急増。二畳一間の如己堂で執筆活動を続け、多くの著名人が見舞った。近所だった築地重信(79)は「芸能人や文化人が出入りしてにぎやかだった」と振り返る。
49年5月には、昭和天皇やローマ法王特使が見舞い、11月にノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹と共に国会表彰が決定。長崎市議会で名誉市民第1号も授与された。長崎日日新聞は永井の話題をつぶさに伝えた。
表彰決定の記事で、永井は注目すべき人物を「星」に例え、日本には他に「たくさんの大きな星」がいるとし「これを機会に次々と認められてほしい」と語った。だが紙面で永井に並ぶ「星」が登場することはなかった。長崎大客員教授の高橋眞司(72)は、注目を浴び続けた永井の陰で「被爆者の苦しみや原爆の実相は報道から抜け落ちた」とみる。
永井自身もマスコミが伝える「永井像」と実像の乖離(かいり)を自覚。著作「花咲く丘」では「新聞や雑誌に書かれている永井博士を私は尊敬している。あんな人になりたい!」と始まり、自分がいかに卑小な人間かを自虐的なユーモアを交えてつづった。高橋は晩年に「永井像」を破壊する表現が散見されると指摘。「あえて露悪表現に走るほど、メディアの脚色は大きかったのだろう」
永井と親しかった純心女子短期大(現・長崎純心大)教授の片岡弥吉が記した「永井隆の生涯」で永井は「私が、聖人ででもあるかのように。私は、初めからつまらない俗人だ」と語っている。片岡の長女で学校法人純心女子学園理事長の片岡千鶴子(77)も「聖者のように祭り上げる報道には不満があったはずだ」と同調する。
51年5月2日に永井が死去すると、長崎日日新聞は追悼ミサや市公葬の報道に加え、著名人らの寄稿を連日掲載。死後、「原爆の聖者」「原子野の使徒」-などの枕ことばが頻繁に用いられるようになり、神格化は一層補強されていった。
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永井の死から約1年後の52年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効。日本の主権回復と共にプレスコードは終わった。そして54年のビキニ水爆実験を契機に被爆者運動が本格化する中で、新聞は被爆者とあらためて向き合い始める。