原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第3部 混沌 7

永井には連日多くの来客があり、執筆するのはもっぱら夜だった=長崎市上野町、如己堂

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原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第3部 混沌 7 原稿 ジャーナリズムの寵児

2014/12/22 掲載

原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第3部 混沌 7

永井には連日多くの来客があり、執筆するのはもっぱら夜だった=長崎市上野町、如己堂

原稿 ジャーナリズムの寵児

1946年2月11日付の長崎新聞は、放射線診療の過程で白血病になり、余命3年と診断されながら献身的に大学の講義や診療を続ける永井隆を写真付きで掲載。長崎新聞が永井を本格的に扱った最初の記事とみられる。

記事で永井は、原爆で亡くなった信者は「幸福」であり「選ばれて神の下に昇天した」と語っている。「浦上燔祭(はんさい)説」の論旨が読み取れる。記事は永井を「熱の人、愛の人」と評し、「短いであろう博士の命は愛惜に堪えぬ」と結んだ。

永井は同年春、長崎新聞の中島清、熊倉一夫両記者から文化双書向けの執筆を依頼された。「爆心地に居合わせて生き残った者は少ない。その中で、体験記を書ける文化人はごくわずかだ」と説得され、後に「長崎の鐘」として出版される原稿「原子時代の開幕」を8月までに仕上げた。

同年12月、長崎新聞社は分裂し双書は企画倒れに。全国紙に移った熊倉から出版界に明るい医学博士の式場隆三郎が原稿を受け取り、出版を約束。しかし原爆の実地観察に基づく初の記録「長崎の鐘」の出版をめぐり、連合国軍総司令部(GHQ)の検閲は時間がかかった。47年1月、式場は自身が主宰する新聞に永井の寄稿を掲載。永井と親交があった片岡弥吉の著書では、同7月に西九州駐屯の米第8軍が原子病研究に励む永井の姿を発表、ジャーナリズムの寵児(ちょうじ)となる。

分裂後の長崎日日新聞(以下長日)も、永井に自叙伝の執筆を依頼、関係をつないだ。48年7月の紙面には永井への「暑中見舞い」の体裁を取った記事を掲載。「東京の新聞社、雑誌社員が足しげく通うあなたの病室に、私たちは努めて遠慮して参りました」。永井人気がうかがえる。

「東京の連中は擦り傷をつくりながら会いに来るような勢い。田舎者のこっちはのんびりしていた」。当時、長日の出版部長で自叙伝の編集に当たった嘉村國男(かむらくにお)(98)=長崎市若竹町=は述懐する。「原稿用紙がない」という永井のために手製の原稿用紙を渡すなど熱心に世話をした。だが、永井が東京の出版界と関係を深めるにつれ「人が変わったように」なり、関係は疎遠になったと明かす。

同10月に長日が自叙伝「亡びぬものを」を発行し売れ行き好調。やがて東京の出版社が原稿を買い取り、全国出版。さらに売れた。嘉村は「当時は社員に給料を払うのにも一苦労で、泣く泣く原稿を手放した。会社に力があればと悔やんだ」ともらす。(敬称略)