燔祭 信者、永井の弔辞に涙
原爆投下の惨禍の跡が生々しく残る長崎。1945年11月23日、崩壊した浦上天主堂跡の広場にカトリック信者が集まり、亡くなった約8500人の同志の安息を祈る合同ミサが営まれた。
当時10歳だった被爆者、築地重信(79)=同市戸石町=もその中にいた。天主堂のすぐそばにあった自宅は原爆の爆風で全壊。同居の叔母と祖父は死亡。祖母と2人だけ残された。被爆直後は、石垣に立て掛けたトタン板の下で眠り、防空壕(ごう)や缶詰工場の焼け跡から食料を掘り出し、飢えをしのいだ。11月になり、ようやく自宅跡にバラック小屋を建てたが、厳しい生活状況に変わりない。「何を食って、今日を生き延びるか」。頭にあるのは、ただそれだけだった。
合同ミサに集まった信者たちの表情は一様に暗い。「皆、うちひしがれ、再起不能だった」。頭に包帯を巻いた信者代表の男が弔辞を読み上げた。
「原爆は神の摂理によって、この地点にもち来らされた」
「世界大戦争という人類の罪悪の償いとして、日本唯一の聖地浦上が(中略)選ばれたのではないでしょうか」
「浦上が選ばれて燔祭(はんさい)に供えられたることを感謝いたします」
信者のすすり泣く声があちこちから聞こえた。「救いになったと思う」。築地は、信者たちの心境を推し量る。「あまりの惨状に、『神も仏もあるものか』という気持ちもあったろう」
弔辞を読んだのは当時、長崎医科大の助教授だった永井隆。弔辞の全文は、49年発行のベストセラー「長崎の鐘」に収録され、広く知られる。原爆投下を「神の摂理」と解釈する原爆観は、永井の死後、歳月を経て論争を呼んだ。長崎大客員教授の高橋眞司(72)は「浦上燔祭説」と命名し、日本の戦争責任とアメリカの原爆投下責任を免責する言説として占領下の日米支配層に政治利用されたと指摘。一方、学校法人純心女子学園理事長の片岡千鶴子(77)は「浦上の信者を勇気づけ、復興への第一歩を呼び掛けるための弔辞だった」とする。
合同ミサを長崎新聞は、短い記事で報じた。午前9時から始まり「信徒代表永井長崎医大助教授の弔詞があつて11時半終了した」。信徒約2千人、連合軍側からは3人が参列した。以降、永井は被爆地ナガサキの象徴的な人物として頻繁にメディアに登場。注目を浴びることになる。(敬称略)