原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第3部 混沌 3

バラック小屋で寒さと飢えに耐えた。腐ったご飯は川で洗って食べた=長崎市内

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原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第3部 混沌 3 傷痕 復興の陰 もがく人々

2014/12/20 掲載

原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第3部 混沌 3

バラック小屋で寒さと飢えに耐えた。腐ったご飯は川で洗って食べた=長崎市内

傷痕 復興の陰 もがく人々

「米国に怒りが込み上げた」。当時16歳の平澤知二良(85)は、福岡県糸島郡の海軍甲種飛行予科練隊から復員。長崎に帰郷し、福富町(現・幸町付近)の実家が焼けたことを知った。家族を捜しに救護所の新興善国民学校へ。廊下には遺体が並んでいた。皮膚がはげたり目が飛び出たりした人たちは、消毒もされず、うじ虫がわいていた。

住宅営団は1945年、浦上の岩川町一帯について応急簡易住宅2千戸の建設計画を発表。復興の始まりだった。家族と再会した平澤はその後、大長崎建設(大長)に入社。大長は民間で復興を進めようと46年夏設立された。当時の運搬は主に馬車だったが、大長は中古の木炭トラックを2台所有、大活躍した。平澤は船大工町から路面電車で現在の宝町方面に通勤。毎日、荒涼とした風景を眺めた。「早く復興を」。気持ちを奮い立たせた。

当時は誰もが貧困にあえいでいた。46年12月18日付の長崎日日新聞は市役所下の壕(ごう)生活者を紹介。「じめじめした壕内は霜がひどい時には氷でも張るのではないかと思われるような冷たさ。これに耐え忍びながら二老婆は淋しく近くの電燈に毎夜羨望の目をまたたき-」

49年、昭和天皇が来崎。長崎駅の再整備を間に合わせた。当時の話題は、国の優遇措置がある長崎国際文化都市建設法に基づく建設計画。広島平和記念都市建設法と同時進行で準備された。長崎の法公布となる同年8月9日付の見出しは「きょう新長崎の誕生日」。

建設ブームの中、平和祈念像の建設計画が浮上。損壊した浦上天主堂の存廃問題も注目されはじめる。戦争と原爆の傷痕が少しずつ消えていく一方、浦上では住宅建設が遅れ、壕やバラック小屋で暮らし続ける人も少なくなかった。

爆心地から約800メートルの油木町で10歳のとき被爆した下平作江(79)は、2歳下の妹とバラック小屋で複数の家族と長年暮らした。冬、隙間から寒風と雪が吹き込む3畳ほどの部屋で、一組の布団に寄り添って寝た。「米兵が食べ残したパンやソーセージを拾って妹と食べた。腐ったご飯も川で粘りを取って食べた」

復興の陰で貧富の差は広がっていく。底辺の被爆者たちは体調不良で働くこともままならず、もがいていた。市民生活に横たわる戦争被害、原爆被害の実相を新聞が本格的に取り上げることもなかった。

下平の妹は18歳の時、鉄道自殺した。 (敬称略)