遺体の街 惨状記事極めて少なく
原爆投下翌日の三菱長崎兵器製作所茂里町工場。爆心地から1・2キロ。当時16歳の福島幸子(85)=長崎市大浦町=は、木切れをはしのように使って焼けた遺骨を丁寧に拾い、小さな箱に詰めていた。時折、引き取りに来る遺族のために。頭蓋骨は指で押し砕いた。
長崎原爆戦災誌によると、魚雷製造の同工場は1945年8月9日、約1180人がいた。福島は学徒報国隊で工務課事務だったが、投下時は炉粕町の自宅にいて助かった。
工場の外からも次々に運び込まれる遺体。毎日、木材を交互に重ね火葬したが、焼いても焼いても追いつかない。1日50~60人分。場内で、黙々と”作業”をした。「末永くおまつりください」。訪れる遺族に誰だか分からない遺骨を手渡すと、黙って受け取って帰って行く。荼毘(だび)の煙の中、そんなことを1週間続けた。
原爆で市民らは広範囲に爆死。多くの生存者も被爆の急性症状などに苦しみながら絶命していく。無差別殺りくの地、浦上一帯は長期間、遺体や火葬後の遺骨が放置された状況もあった。
「城山の橋のたもとには両手を天にあげ、片足は半ばあげ、隻脚(片足)でつッ立っている黒コゲの死体が何時までもあった」「警防団も軍隊も、これに手をつけることが恐ろしかったからである」-。元長崎新聞記者でわが子3人が爆死した中尾幸治(64年死去)は、著書「田舎記者」でこう書いた。長崎原爆被災者協議会初代会長を務めた杉本亀吉(79年77歳で死去)の著書「原子雲の下に」では、45年11月ごろ城山町をくまなく回るとあちこちに頭蓋骨が転がっていた。壕(ごう)に投げ込まれた死体、便槽に落ち込んでいるものもあったとしている。
この時期、連合国軍総司令部(GHQ)のプレスコード(新聞遵則)に基づき記事などの「検閲」が行われ、連合国批判につながる表現は規制、自粛された。このためか被爆の惨状を伝える記事は極めて少ない。
長崎新聞は「ナガサキは汚い 蠅と蚊の退治だ」(45年10月4日付)「街をきれいに 進駐軍にも恥しい」(同5日付)-の見出しで、衛生面に憂慮するGHQ幹部の見解などを報じたが、街中の遺体、遺骨を紙面で伝えることはなかった。
真宗大谷派(東本願寺)長崎教務所(筑後町)の記録では、被爆から7カ月後も無数の遺体が放置されていた。門徒らは46年3月から約半年、長崎駅から住吉方面に向かって収集。計1万~2万の無縁仏は今も収骨所に納められている。
(文中敬称略)
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年間企画の第3部は、第2部に引き続き占領期が舞台。この時代の市民の暮らし、復興、被爆医師の永井隆博士と新聞報道について取り上げる。