被爆体験記 恨み再燃 「安寧乱す」 表現を書き換え発行も
「長崎の鐘」「雅子斃(たお)れず(長崎版)」「原子雲の下に生きて」「長崎-二十二人の原爆体験記録」-。米メリーランド大プランゲ文庫は、長崎ゆかりの書籍も保管。4冊に共通するのは個人の被爆体験、そして1949年に発行された点だ。48年以前に発行された原爆関連書籍は極めて少ない。
「長崎の原爆について非常に描写的に描かれ、原爆投下は人道に反する犯罪であると示唆している。日本の公共の安寧を乱すことになる」「戦争の傷や恨みを再燃させないような未来になるまで出版されるべきではない」-。連合国軍総司令部(GHQ)民間検閲局(CCD)第3地区(福岡市)の検閲官が47年7月に出した文書が同文庫にある。この検閲文書の対象は、10代の少女が長崎原爆の体験をつづった手記「雅子斃れず」。プレスコードが禁じる「公共の安寧を乱す」事項に抵触するため当面の発行禁止を指示している。
長崎総合科学大教授、横手一彦(55)の著書「長崎・そのときの被爆少女」によると、検閲の判断を得る前に印刷した「雅子斃れず」仮刷版にある表現「病のアメリカ」は長崎版では「病の敵」に、「悪魔の如(ごと)き原子爆弾」は「恐ろしい原子爆弾」に自ら書き換えた。
被爆医師永井隆の「長崎の鐘」をめぐっては、日本軍のフィリピン・マニラでの残虐行為を記録した「マニラの悲劇」を付録に加えることをGHQが条件提示し発行に至った。横手は「『長崎の鐘』はGHQの最高レベルの判断を求めるところまでいったとされる。『雅子斃れず』も準じるレベルの判断があった可能性は否定できない」とする。
米ソ冷戦を背景に米国は49年10月末にCCDを廃止、検閲は終了する。だがプレスコードは存続し、その後も原爆報道に神経をとがらせるGHQの姿が垣間見える。50年6月、朝鮮戦争が勃発。その影響で8月9日の文化祭(今の平和祈念式典)が中止となったが、理由について同5日付の長崎日日新聞には「都合により一切の行事は中止となった」との7行の記事が載っただけだった。
(文中敬称略)=第2部おわり=