民主化教育 メディアを巧みに利用 記者も率先してGHQ取材
「躊躇(ちゅうちょ)せず再建計画へ進め」-。長崎新聞の1948年元日1面のトップは連合国軍総司令部(GHQ)元帥マッカーサーの年頭の辞。その下には長崎軍政府司令官を46年9月から約2年半務めたビクター・デルノアの新年のあいさつも載っている。
デルノアの親族が米メリーランド大プランゲ文庫に贈った「デルノア・ペーパー」と呼ばれる資料一式に、当時の記事や写真を収めた1冊のアルバムがある。そこには正月、成人の日、原爆記念日などさまざまな機会をとらえ、顔写真付きで県民にメッセージを送る為政者デルノアの姿がうかがえる。農家に米の供出を呼び掛けるものもあった。
GHQは、日本の戦時中の軍国主義を排し、米国流の「民主化教育」を推進した。そのために広報・宣伝手段としてメディアを巧みに利用。指導にも力を入れた。48年7月18日付の長崎日日新聞には、GHQの新聞課長インボデンが全国巡回の「新聞講座」で長崎日日新聞社を訪れ、「新聞の民主化によって日本の民主化が確立される」と激励したことを報じている。
デルノアと同時期に長崎軍政府に赴任した教育官のウインフィールド・ニブロは「戦後日本のスクエアダンス(フォークダンス)の父」とも言われ、「男女共学」の精神を浸透させるためダンスの普及に努めた。もともと高校の社会科教諭だったが、入隊後は特別諜報(ちょうほう)員の経歴を持つ。学校を回ってダンスを指導する光景など、デルノアに負けず新聞紙面で頻繁に取り上げられた。
デルノアやニブロとカメラマンとして親交があった高原至(たかはらいたる)(90)=長崎市=は「デルノアさんは休みの日に被爆者の見舞いに行ったり、2人とも人格者で慕われていた」と語る。高原は叔父を原爆で亡くしたが、米軍に対し「不思議と憎しみはなかった」という。戦争終結の解放感がむしろ大きかった。「長崎軍政府からの取材依頼は多かったが、戦後の新たな日本をつくるため記者も率先して(GHQ関連の)取材をしていた」。高原の言葉に当時の取材現場の一端が垣間見える。(文中敬称略)