原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第2部「プレスコード」 5

1946年6月25日付「長崎新聞」(米メリーランド大プランゲ文庫所蔵)のマイクロフィルム(長崎純心大所蔵)のモニター画面。鉛筆書きで検閲のチェックが入っている。

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原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第2部「プレスコード」 5 痕跡 自ら規制 米に“従順” 発行禁止や裁判を恐れ

2014/10/06 掲載

原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第2部「プレスコード」 5

1946年6月25日付「長崎新聞」(米メリーランド大プランゲ文庫所蔵)のマイクロフィルム(長崎純心大所蔵)のモニター画面。鉛筆書きで検閲のチェックが入っている。

痕跡 自ら規制 米に“従順” 発行禁止や裁判を恐れ

連合国軍総司令部(GHQ)が検閲していた時期の日本の新聞などを保管する米メリーランド大プランゲ文庫。経年劣化が進む資料類は、保存・活用のためのマイクロフィルム化が進んでいる。

このうち本県関係のフィルムについては、長崎純心大(長崎市)がコピーを保管している。1946年3~12月(欠号あり)の長崎新聞紙面から検閲の痕跡をたどると、「共同」「本社」などの鉛筆書きの文字が目立つ。共同通信の配信記事と、長崎新聞の本社記事を区分けしていたとみられる。

検閲では紙面の見出しや記事、広告などに線を引いたりバツ印を付けたりして、問題の箇所に何らかの印を残す。特に当時の食糧事情や頻発していた労働争議などにGHQは目を向けていたようだ。

例えば6月25日付「死亡率は増加の一途」の記事は、戦後の深刻な食糧危機を取り上げているが、「(幼児の死亡率増加は)母親の栄養失調により母乳不足から来る死亡者が大部分」といった記述に線が複数引かれている。

逆に原爆関連は、チェックが入っていない記事が予想以上に多い。その一つ、4月15日付の「鐡骨の殘骸の下・再建は進む 六月に操業開始 三菱製鋼 二萬坪の大緑地帯」の記事は、壊滅した工場の写真を大きく掲載しているが、記事の内容は戦災復興の状況などが中心。全体的に個人体験などに焦点を当てて写実的に原爆被害を訴えるような記事は見当たらない。

プランゲ文庫が保管する資料のデータベース化を進めた早稲田大名誉教授の山本武利(74)=メディア史=は「反米意識をあおるような記事は厳しいチェックを受けた。最悪の場合、発行禁止処分や紙面責任者が裁判に掛けられる。このため、書く方も自主規制があっただろう」と指摘する。

山本の著書「占領期メディア分析」によると、新聞(事後検閲)の48年10月分の検閲処分件数を見ると、問題がないと判断された「パス」率が99・05%。新聞はプレスコードに極めて”従順”だったようだ。

(文中敬称略)