現場取材 消えた 生々しい現実 検閲態勢で楽観的紙面に
「被爆者續々(ぞくぞく)と死亡 絶えぬ街の火葬」-。長崎新聞は、原爆の投下から1カ月余りたった1945年9月15日付で爆心直下の浦上の惨状を伝えるルポを掲載した。損壊した浦上天主堂を訪ねた記者は、あちこちで死体を焼く様子を目撃。紫斑や脱毛などの急性症状で次々に亡くなる人々や信者の遺体が掘り起こされずにいる状況を報じた。
だが、被爆地の現実を生々しく伝える記事はその後、紙面から消えていく。連合国軍総司令部(GHQ)は19日にプレスコード(新聞遵則=じゅんそく)を発令、検閲態勢を築いた。
「原爆症で苦しむ人々のことも、貧困にあえぐ被爆者のことも、何ら触れられていなかった。当時、新聞に掲載された原爆症関係の記事といえば楽観的なものばかりだった」。原爆投下時に同盟通信(共同通信などの前身)長崎支局の記者だった松野秀雄(2000年82歳で死去)は「プレスコードなど制約があったとはいえ、努力が不十分だった」と、著書で占領期の報道を自戒している。
当時の長崎新聞には「原子症状・峠を越す 現在は殆(ほとん)ど貧血病」(45年9月23日付)「起上(おきあが)る槌(つち)の音 長崎復興始まる」(46年2月15日付)など、楽観的な見地が紹介され、戦災復興の色彩も濃い。
一方、長崎市在住で45年12月から大手紙の長崎支局でカメラマンを務めた高原至(90)は、こうした一連の報道について、被爆地を包む当時の空気感が反映されていたと考える。
高原は、GHQ関係者に同行し浦上に取材に出掛けたこともあった。その際、特に撮影禁止の指示は受けなかったという。長崎の港を撮影することさえも、憲兵隊に止められた戦時下と比べれば雲泥の差だった。
終戦直後の浦上は一面焼け野原。生存者はトタンや板切れを集めてきて粗末なバラック小屋を建て、石油缶を七輪代わりに煮炊きしていた。自身も原爆で叔父を失った高原は述懐する。
「苦しい生活をしている人たちを撮影するのを意識的に避けた。戦災復興に自然と目が向いていた」(文中敬称略)