検閲文書 米国批判で処分 プランゲ文庫に60万ページ保管
米国の首都ワシントンから地下鉄とシャトルバスを乗り継いで約1時間。メリーランド大の学内に「プランゲ文庫」は存在する。
1945年9月、連合国軍総司令部(GHQ)が占領政策の一環で発令した「プレスコード(新聞遵則=じゅんそく)」に伴って、出版物などの表現内容を強制的に調べる「検閲」は始まった。約4年後の49年10月に検閲が終了した際、GHQの民間検閲局(CCD)が保管する約60万ページに及ぶ検閲文書を含む大量の資料の処分が問題となった。その歴史的価値に注目したのが、戦史編さんに当たっていた歴史学教授、ゴードン・W・プランゲ。軍と大学双方に掛け合い、同大に資料を移管することに成功した。
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今年6月、「プランゲ文庫」マネージャーのエイミー・ワッサストロムの案内で書庫に足を踏み入れた。当時の日本の世相を伝える児童書や漫画、ヘアカタログなどがずらりと並ぶ。ワッサストロムは、ある検閲文書を示した。
「NAGASAKI NICHINICHI」(長崎日日)「Post-censored;Disapproved」(事後検閲、不可)。そこには現在の長崎新聞の前身、長崎日日新聞に48年1月12日付で掲載された「長崎軍政府の教育補佐官、エドワード・N・メルダール氏 離任」の記事が不可の処分に当たる旨、英文で記されていた。メルダール氏の「われわれアメリカ人がもっと友好的な態度で日本人に臨むならば凡(すべ)ての困難も打破され明るい日本が建設されるでしょう」という離任のメッセージが米国批判に当たるということだった。
検閲における掲載禁止・削除理由の類型は▽連合国批判▽闇市取引の記述▽暴力や社会不安の扇動-など約30項目に及んだ。川南工業(深堀造船所、香焼造船所)の労働争議(47年9月)に関する新聞広告が検閲違反に当たるとの文書も残っていた。
原爆に関する新聞記事や書籍などの出版をめぐる当時の状況はどうだったのか。ワッサストロムはこう語った。「原爆を取り上げた文章のすべてが検閲処分を受けたわけではないが、感情に訴え掛けるような個人の体験に厳しい目が注がれた印象がある」
(文中敬称略)
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来年の被爆、終戦70周年に向け、長崎新聞の70年にわたる「原爆報道」を検証する年間企画「原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道」。第2部は「プレスコード」に焦点を当て、占領期に新聞や出版業界が置かれていた状況を探る。